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[小説]夏の犬たち(10/13)– 私はあんたの犬

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「夕飯なら冷蔵庫にあるから温めて食べてね」
 そう言い残して、由莉が出掛けていった。夕方の時間だった。
 一人になると、よもぎは持て余した。人ひとりの身には余る空間を、のっそりと首をもたげる性欲を。
 夏休みはまだ続いていた。不必要なほどに長かった。冷房をつけていてもソファに転がった体には熱がこもり、一層悶々としてくる。大学が恋しい。そう思った。キャンパスや教室ですれ違うさまざまな男たち。あの質量を備えた存在を身近に感じたかった。
 水族館のあの日、男に近づいたのだ。肉体的に、性的に。だのに奇妙なことが起こって、ローソク消しをかぶせられたみたいにあっけなく性欲の火が摘まれてしまった。
 不甲斐ない。汲んでも尽きぬのが自分の性欲である。そういう自負があったのに。
 あの男は無防備で開かれている。つけ入る余地があると思わせる。なのにいざ前にしてみると、その気が失われてしまう。いまいましい思いで、せめて想像の中で好きにしてやると目をつぶってみるが、堅くロックされてるみたいに男のあられもない姿にたどり着くことができない。

 ため息をついて立ち上がったよもぎは、冷蔵庫から食事の皿を取り出し、レンジで温めて食べた。食べながら、頭にむずむずとしたかゆみを感じた。湿気の多い日で汗をかいた。早く由莉に帰ってきてもらって頭を洗ってもらいたい。
 けれど、いつまで待っても由莉は帰ってこない。待ちくたびれてソファでうとうととしていたらドアの開く音で目が覚める。
 時計を見ると十二時を少し回ったところだった。音もなくリビングに入ってきた由莉は、ソファに寝そべるよもぎの横に立っていた。細い肩紐の小さなバッグが、リップスティックとパウダーパクトとハンカチを収めたら財布なんてとても入らないようなそれが肩から床に滑り落ちる。

「おかえり」
 微かにうなずいてよもぎを見る由莉の目は、しかしよもぎを見ていなかった。その目は、その顔は、ここにありながら、この場所ではないどこか遠くに存在するみたいだった。
 よもぎの寝ぼけた眼に映る由莉はいつもと少し印象が違っていた。クリーム色の花弁を思わせるワンピースは体にぴたりと沿って胸の丸みや細い腰を際立たせている。四角く開いた首元は鎖骨をきれいに見せていた。触れなば落ちんという言葉が実体化したらこんな姿だろうというもので、それがなぜか見る者に無残な感じを与えた。
「人と会ってたの。知らない人」
 見た目とはちぐはぐに、幼女みたいな声で由莉が言った。
「アプリでマッチしたの。二十八歳の会社員って人。実際会ったら三十は過ぎてそうだった。けどそんなことどうでもよくて、二人で食事した。わざわざ薄暗くしてテーブルにキャンドルを灯してる馬鹿みたいな店。でも感じの悪い人じゃなかった。それで食事が終わったらそのまま近くのホテルに行ったの」 
「やったの!?」
 ソファに寝転んだまま、よもぎは叫んだ。こいついつの間に。妬ましさに体がわなわなと震えてくる。その反応がまるで目に入らない様子で由莉は続けた。
「セックスなんてなんでもないことだって考えたから、その通りにしようと思ったの。だけどホテルに入る直前に怖くなって、その人に謝って帰ってきた……」
 顛末を聞いてほっとした途端、よもぎの脇腹がひくひくと引き攣れる。それが由莉に対する嘲笑となって口から漏れようとしたときだった。由莉の膝が前触れもなく崩れて、くしゃんと床にへたり込んだ。それは機械的にも思える動きだった。由莉は自分の頭をよもぎの柔らかな腹の上に載せた。
「恩がいつか誰かとセックスする前に、先にしておきたかった。そうしたら、私がした大したことないことを恩もしてるんだなって、そう思えるから。なのに、こんなふうに怖じけるなんて」

 よもぎの腹が呼吸によって上下している。普段意識することのないその動きが、由莉の頭の重みによって感じ取れた。よもぎはあらためて訊いた。
「あんたは恩とセックスしないのか?」
「……私の夢はね、恩と一緒にただ暮らすこと。赤毛のアンってあるでしょう? あれはマシュウとマリラって年取った兄と妹が一緒に住んでる話でしょ。あんなふうにきょうだいとして暮らせたらいいなって。若さとかセックスとかそういうのを飛ばして年寄りになって、もう一度子どもの頃みたいに恩と清らかに穏やかに過ごせたらいいなって。……だけどね、その夢が叶わないことを思っても、叶うことを思っても、苦しくてしょうがない。それは子どもの頃の思い出がきれいなまま、いま死ぬのとなにが違うんだろうって」
 Tシャツの腹が由莉の涙で濡れていくのを感じながら、よもぎはもう一度訊いた。
「どうしても恩とセックスできないっていうのか? きょうだいだから?」
 由莉はよもぎのTシャツをつかみ、頭を載せた格好のままうなずいた。よもぎは上半身を起こして、きれいなかたちの頭に向かって問いかける。
「前に私が言ったこと、覚えてる?」
 よもぎに向けられた目が、涙に濡れたそれが青みを帯びて光っていた。

 よもぎは由莉を引っ張り、リビングを出て洗面所に向かった。そして鏡の前に並んで言った。
「いいか。私はあんたの犬だから、あんたの恩とセックスをしたってなんの問題もない。それは由莉、ほとんどあんたがしたことと変わらなくなる」
「でも……どうやったら恩があなたとするっていうの?」
「恩はあんたのことばっかり考えてるよ。あんたを心配して、あんたの望むことならきっとなんでもしてくれる」
「でもそれは……ものごとには限度ってものが」
 涙声で混乱している由莉の肩によもぎは手を置いた。そして自分は天才じゃないかという確信に恍惚となりながらささやいた。
「よく見てごらん。あんたと私は似ても似つかないから、そんなこと考えたこともないだろうけど、身長も体格もじつはよく似てる。私があんたのふりをして恩とセックスをするんだよ。あのやさしい恩ならきっと応じてくれる」
 息を呑んだ由莉にほとんど顔をすり寄せるようにしてよもぎは続けた。
「そうとなったら早く頭を洗ってよ。あんたの頭はこんなに脂ぎらない」
 由莉は無言でシャンプーをした。いつもにも増して丁寧な手つきが、よもぎの提案に対する答えになっていた。
 次の日の朝、よもぎは由莉が脱いだ昨夜のクリーム色のワンピースをこっそりと着ようとした。それは小動物の断末魔のような音を立て、太ももの横と背中のファスナー部分から派手に裂けた。部屋から起きてきてその醜態を目にした由莉はあぜんとした顔で「なにがよく似てるよ」とつぶやいた。

 それからの数週間、由莉は徹底してよもぎを管理下に置いた。あのぶざまに裂けたワンピースと、それを身につけた野蛮人を思わせるよもぎの姿がトラウマになったらしかった。
 昼と夜の食事から炭水化物が抜かれ、どんなに暑い日でも湯船に入って湯上がりの全身にボディクリームを塗ることを命じられた。着古してくたくたのパット付きのタンクトップを捨てられ、デパートでサイズの合ったブラジャーを買わされた。
 そういう細々とした形式的なすべてを、生きて死ぬまでの間を埋める無意味な、虚無的なことだとよもぎは受け取った。艶消しの眼で従いながら、そう思った。普段の自分だったら、根を上げるよりもっと前に逃げている。
 よもぎが耐えられたのは、目の前に恩との性交という人参がぶら下げられているからだった。そう考えると、この使い古された人参という比喩それ自体が性的なものに思えてくる。含み笑いをしたよもぎに「品のない顔をしないで」と由莉がぴしゃりと言い放った。

 よもぎの携帯に田舎の親から「盆には墓参りに帰ってこい」と電話がくる。そういう時期だということも、両親の声のイントネーションも、すっかり忘れていた。夏の墓場の陽射しの逃げ場のない苛烈さと墓石が落とす黒い影だけを思い出し、「帰れそうだったら」と曖昧な返事で通話を切る。
 帰るつもりはなかった。墓の下で骨だけになって死んでいる人間たちはいくら待たせてもいい。セックスは生きた人間としかできない。
(つづく)

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