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[小説]夏の犬たち(1/13)– 視線

 〈あらすじ〉
 大学1年生のよもぎは、異性の身体に強い関心があるものの、頭を洗うのが嫌いなせいで人から避けられていた。自分のことを飼い犬みたいに洗髪してくれる同級生の由莉と出会ったよもぎは、彼女が幼馴染の恩に想いを寄せていると知り、男女のセックスを見たいがために彼らをくっつけようと画策するが……。


 もっと透けないか。そう念じながら、よもぎは白いシャツの背中を見つめていた。

 一列とんで前の席に座る男子学生の、初夏の陽気に汗ばんだ背中に貼りついているシャツは、その下の肌の色や筋肉の張りを伝えそうで、あと少し及ばない。目を凝らせばなんとかなる気がして眉間に一層のしわを刻む。重たいまぶたの下、研ぎ澄まされた陽炎を思わせるよもぎの眼光は、この大講義室の教員を含めた誰よりもおそらく鋭い。

 視覚の限界を感じた脳は、やがて見えないものを想像で肉づけしていく。広い肩幅や、まくりあげられた袖から見える腕の太さから勘案するに、体育会系の学生である。
 脳の表面がじゅっと汗をかく。筋肉の上にほどよく脂肪の乗った裸のたくましさを想像して、ごくんと鳴った喉の音を聞いた者はいなかった。そのタイミングで授業終わりの鐘が鳴ったから、というだけでない。どんなに人数が多くて混み合った講義室でも、よもぎの近くに座る者はいなかった。
 講義室を出ようとする体育会系学生にそのままふらふらとついていきそうになったが、引き戸の扉を鼻先で乱暴に閉められる。
 廊下に出ると、体育会系学生の姿は消えている。すん、と鼻をすすって、よもぎは教養棟から外に出た。

 ゴールデンウィーク明けのキャンパスの木々には蛍光色の若葉が生い茂り、目に痛みすら感じさせた。構内を歩くよもぎの視線は羽の破れた蝶の飛び方のようにふらふらと定まらない。
「男、男、あれも男……」
 唇にのぼる言葉は脳を経由せずに脊椎からぽろぽろとこぼれ落ちたものだ。
 大学にはいろんな男がいる。この春に入学してから、その事実をかみしめて味わわなかった日はない。
 講義室を出てからすでに、小太り、髪がピンク、ジャージ姿、猫背といった男子学生たちとすれ違っていた。そのことごとくに目を奪われ、女には分泌できないツンとした刺激のある汗の匂いをかごうと鼻を動かす。カーニバルみたいにあとからあとからとりどりの男が現れることに、あでやかなめまいを感じて、木陰にあらわれたベンチに腰を落とす。
 ほうと息をついて、背中を丸める。親指と人差し指の爪で指毛を挟んでは抜いていく。指を離すと毛はそよ風に乗ってどこかに飛んでいく。しばらく無心になってそれを繰り返していると、通路を挟んで向かいのベンチに誰かが座った気配がして、顔を上げた。

 Tシャツを着た痩せ型の眼鏡の男。リュックを太ももの横に置いて、分厚い専門書を広げている。おそらくは、工学部の学生。
 さっきの体育会系の男とは対照的な体つきをよもぎはじっと見た。山寺の奥の院に安置された高僧の木像を思わせる頬骨や喉仏に這わせた視線は徐々に下がっていき、少し開かれたチノパンの股間の位置に固定される。
 よもぎのまぶたはふたたび細く絞られる。ズボンの股間は青い影になっている。その布地を一枚二枚隔てた向こうに陰茎がだらりと下がって存在している。そのはずである。
「なるほどね」
 口の中でつぶやいてみたが、自分でもなにがなるほどなのかわからない。
 それはいったい下着の中にどのような具合に収まっているのか。布地にきつく押さえつけられているのか、ある程度は自由きままに過ごしているのか。
 それがときにかたちや硬さを変えるということも、知識としては知っていた。その変化はお祭りのおもちゃの吹き戻しにも似た一瞬のことなのか、あるいはビニールプールが膨らんでいくように少しずつになのか。間違い探しの絵みたいに気づいたらそこだけ違っている、という質のものかもしれない。
 向かいから寄せられる異様な視線に気づいた男子学生が顔をこわばらせて腰を上げるまで、よもぎは射程をはかる狙撃手のように股間を睨んでいた。
 男子学生がベンチから消えると、よもぎは懶惰な舌打ちをした。

 頭に強いかゆみを感じる。ベタついた髪の間に指を入れて掻く。それから指先を眺めると、爪の間に白い皮脂が詰まっている。親指の爪でそれをこそげて鼻先に持っていき、すえた脂のにおいを確認してから、最後にぴんと弾き飛ばした。
「その頭、環境に配慮してるの?」
 突然声がして、よもぎはびくりと痙攣して顔を上げた。ベンチの横に知らない女が立っていた。
 女はさらさらの髪を左肩に垂らすようにわずかに首を傾け、よもぎのことを見ていた。よもぎは黙ったまま女の顔を見返した。数秒、その姿勢のまま固まっていた。大学に入ってから初めて人に話しかけられていた。
「違うのね」
 よもぎは無言のままうなずいた。ずっと使っていないせいか喉から声が出ない。
「フケが出てる。かゆくない?」
 よもぎは瞬きして、また微かにうなずく。
「うちに来ない? すぐ近くだから」
 知らない女はやさしげな、しかし有無を言わせない口調でそう告げると、ほっそりとした手を差し出してよもぎの手をつかんだ。

 少しよろけて立ち上がったよもぎは、女に手を引かれて無抵抗に歩いていった。突然のことに思考が停止していた。キャンパス構内を抜け、大学の門から外に出る。母親に叱られて引っ張られていく子どもみたいな格好で、しかし母親と子どもに喩えるには見た目にも不自然な組み合わせだった。
 女の手は石けんから掘り出したように白くなめらかで無毛だった。細かくプリーツの入ったラベンダー色のスカートが女の脚の動きにあわせて揺れて、その生き物めいた際限のない動きに催眠術にかけられたようになりながら、背を丸めてよもぎは歩く。
「授業で一緒でしょう? 声を掛けようと思ってたんだけど、タイミングがつかめなくて」 
 最寄りの駅の方面に向かっているらしい足を止めず、ちらりと顔だけを振り返らせて女が言った。とりあえず返事をしようとしたよもぎの喉は、痰が絡んでごろごろと鳴るだけだった。

 授業で一緒と言われても全然ピンとこなかった。よもぎの目には男子学生(あるいは若手の男性教員)だけがあざやかに飛び出して映っていて、ほかのすべては背景に過ぎない。だから女から話しかけられたときは、書割だと思っていたなよやかな松の木が実は人間だったと知って、あっけにとられる気持ちだった。
 女の足は駅の近くにあるマンションの一つに入る。エレベーターに乗せられて、そこではじめて手を離された。五階で降りて、通路を歩いてつきあたりの部屋に通される。

 言われるがままによもぎは靴を脱ぎ、女の傷ひとつない白いエナメルのパンプスの横に自分の泥だらけのスニーカーを置いた。それはアディダスとかナイキといったメーカーのものでなく、故郷のホームセンターで一九八〇円で買ったしろもので、サイドに貼りつけられた「JOIN US」というロゴから乾いた接着剤がはみでている。体はもう成長しきっているのに、少し大きめを選ぶという子ども時代からの観念が抜けず、実際のサイズよりも一センチ大きいそのかかとはしっかりと踏み潰されていた。

 廊下に棒立ちになっているよもぎに女はやわらかくほほえみかけ、「あっちにお風呂あるから」とうながした。
「お風呂?」
 ようやく声の出たよもぎが聞き返す。
「うん。遠慮しないで。入ってないんでしょう?」
「入っては、いるけど」
 今度は女が目をしばたかせて、遠慮のない眼差しでじっとよもぎを見つめた。
「それじゃ、どうして」とまで口にしてから女はいったん言葉を飲み込み、別に怒っているわけじゃないの、と子どもに聞かせるときのような調子で言い直した。
「お風呂はあるの?」
「それは、ある」
「でも頭は、洗ってない?」
 よもぎはうなずいた。
「それは何日くらい?」

 よもぎはなにもない空間に目を向け、指折りながら最後に頭を洗ってからどれくらいになるかを数えた。今週洗ってないのは確実で、それより前の先週のこととなると霧に包まれたみたいに茫漠としている。おそらく一週間、ひょっとしたら十日はーーー。
「頭を洗うのが、苦手?」
 答えを待たずに女が訊いた。少し考えて、つまりはそういうことになるのだろうと思い、うなずいた。女は自分の二の腕を抱えて、長い数秒を置いてから言った。
「ねえ、それじゃ、私が洗ってみてもいい?」
 言葉とは違って、よもぎから許可を取るというより、すでに決まったことを口にしているだけみたいだった。途端によもぎは返事をするのも億劫になって、了解のしるしに目の前の顔をただ見返した。
(つづく)

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