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[小説]夏の犬たち(3/13)– あたらしい犬

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 由莉にシャンプーをしてもらった帰り道だった。夜と昼の間に迷いを深めたような藤色の空の下、歩道を歩いていると、よもぎの体をぎりぎり掠めるようにして、すぐ横を自転車が走っていった。 
 あっという間に自転車は影となって去っていった。それでもわかった。スポーツタイプの自転車に乗っていたのは若い男で、おそらくは同じ大学の学生で、自分のアパートに帰るか、バイト先に行くかするところだ。
 男はみんなこうだ。よもぎは思った。こっちがどんなに望んでも、身体にちょっと触れさせることもしないで一瞬にして逃げていく。
 悶々とした怒りが皮膚の下で膨張する。熱くなった頭の中で、けち、臆病者、不能と、あらゆる若い男たちを罵りまくる。

 それでも空に青みが広がって空気が少しずつ冷めていくにつれ、怒りの波は引いていった。よもぎにとって一つの感情が長続きすることはない。熱がおさまって、信号が点滅する横断歩道を渡り終えるのと同時に、涼しい風が頬を撫でていく。心地よさを感じたその瞬間に気がつく。誰かが自分のあとをつけていると。
 直感なのか願望なのか区別があいまいだったが、それが男であるとよもぎにはわかった。興奮で喉からおかしな声が出そうになるのをぐっとこらえる。振り返りたくなるのを我慢してうつむき、歩調を変えずに歩き続けた。
 これはひょっとしたら痴漢か? そう。絶対にそう。私という女の体を目当てにあとをつけてる痴漢なんだ。

 血管の中をアドレナリンが駆け巡り、次第に息が荒くなる。眼にぎらぎらとした光が浮かぶ。
 痴漢だったらどこかのタイミングで私に飛びかかってくるかもしれない。そうしたら逆に、こちらから思う存分、体をまさぐってやる。
 口の中でそうつぶやくと、よもぎは暗闇に目を血走らせた。
 意気込みの甲斐はなかった。痴漢はいつまでも襲ってこなかった。じりじりしながらアパートにたどり着く。ドアノブに手をかけたその瞬間、背後から男が部屋に押し入ってくるかと夢想したが、ドアはよもぎ一人を通してパタンと閉まった。
 明かりをつけない暗い部屋で、よもぎはゆっくりと十数えた。そしてミニキッチンの流しの上にある、アパートの外通路に面した窓をひといきに開く。
 外通路の向こう側の駐車場に、若い男が立っていた。娘の一人暮らしの防犯面にまで思い至らなかった田舎の両親が一階の部屋を契約したから、ほとんど面と向かうかたちで男とよもぎは顔を合わせた。

 男の目が丸くなるのを青白い街灯が照らしていた。よもぎは少し咳払いをしてから口を開く。
「なにかお困りですか?」
「いえ……」
 落ち着きの中に戸惑いが混じった声だった。
 自分はいま、若い男としゃべっている。その事実に気持ちを昂らせながら、できるだけ平静に聞こえるようによもぎは尋ねた。
「それじゃ、私に用とか?」
「用、というほどではないのですが」
 男はそこでいったん目を伏せてから、気を取り直したように続けた。
「僕は、遠塚恩といいます。佐伯由莉の知人で、同じA大の一年です」
 なんだ、由莉の男か。よもぎは一瞬がっかりしてから、その男が自分をつけてアパートにまでやってきた、という奇妙な状況になんらかの機をねばり強く見出そうとした。

「由莉さんのお知り合いがなにか」
「あの、あなたが由莉の部屋から出てくるのをたまたま見かけて、ずっと気になってたんです。……失礼ですが、あなたは由莉の普段の友達とは雰囲気がちがっているし、由莉はあまり友人を自宅に招くタイプじゃない。それなのにあなたは週に何度か由莉の部屋に通っているみたいで。どういう知り合いなのか由莉に尋ねても、はぐらかされるばかりで」
「あのう、こんなところで立ち話もなんですから、うちに入りません?」
「けっこうです。こうしてここにいるだけで不躾なのに、お宅にお邪魔するなんて」
 さりげなく誘導しようとしたのにはねのけられ、よもぎは内心舌打ちした。
「ーーすみません、こんなふうに女性の一人暮らしを訪ねるなんて、あまりに常識外れでした。ただ僕は由莉とは古い知り合いで、子どもの頃の癖が出て、彼女のことが心配になってしまったんです。あなたは彼女の友人なんですよね?」

 自分は由莉の友人か。そんなこと考えたこともなかった。週に三回頭を洗ってもらうだけ。その間、彼女とちゃんと会話したこともない。そもそもどうして自分の頭なんかを洗ってくれるのか、その理由を由莉から聞いたこともなかったし、こちらから訊こうともしなかった。興味がないから。
 だがしかし、今はそんなことどうだっていい。
「はい! そうだと思いますよ」
 元気に返事をして、よもぎは自分で考えるとびきりの笑顔で、ずらりと並ぶ歯を剥き出しにした。
「そうですか」
 恩は静かにうなずいた。
「どうでしょう。お互い由莉さんの友達とわかったし、うちでお茶でも」
「いえ、お気遣いはいりません。無礼なことばかりで、ほんとうにすみません。失礼します」
 そう言って頭を下げた恩が立ち去るのをなすすべもなく見送ると、アパートのやわらかいクッションフロアで三度、よもぎは地団駄を踏んだ。

 次に由莉のマンションに行ったとき、椅子に座って頭を後ろに下げ、目にタオルを載せられたところでよもぎは口を開いた。
「オンって名前の人がうちに来たよ」
 シャワーのお湯がザーッと頭に浴びせられたのと言い終わるのとが同時だった。
「うん、聞いた。ごめんね。びっくりしたでしょう」
 そう言いながらてきぱきといつもの手順でシャンプーを進める由莉に、「別に」とよもぎは口ごもる。
「あの人と付き合ってるの?」
 そう訊くと、頭皮の上でシャンプーを泡立てている由莉の指は少し止まった。
「そういうんじゃないの」
「ふうん」

 それじゃ、男との間にほかにどういうんがあるのかと想像をたくましくしているあいだに、よもぎの頭はすすがれる。丁寧に、というより、ほんの少しの泡も残さないという静かな執拗さによってすすがれる。
 椅子の背を起こされて、タオルで頭の水気を拭かれているといつも、あの世から呼び戻されたみたいによもぎの頭はぼんやりとした。
 うまく束ねられない意識のまま、浮かんだ疑問をそのまま口にする。
「私のこと、オンって人になんてしゃべったの?」
 タオルの手を動かし続けながら、少しも言い淀むことなく由莉は応えた。
「私の、あたらしい犬」
(つづく)

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