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[小説]夏の犬たち(4/13)– 散歩

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 普段は平日の午後が洗髪の時間に決まっていたのに、その土曜、よもぎは朝から由莉のマンションにいた。
 シャンプーのあと、由莉はまだ椅子に座ったままのよもぎの顔を見つめて、「少しじっとしてて」と告げた。由莉は手のひらでくるくると洗顔フォームを泡立てると、クリームみたいな泡をよもぎの鼻の下に塗りつけた。そして折りたたみの剃刀をパチンと開くと、唇の上の濃い産毛を丁寧に剃り落とした。
 それから爪を切られたり、耳の内側をぬぐわれたりと、されるがままの念の入ったグルーミングが終わると、二人は一緒に外に出た。

 少しの迷いもなく歩いていく由莉のシフォンのワンピース、その淡いブルーの裾の揺れがアスファルトにうっすらと影を落としていた。動けばすぐに汗ばむような青空の日だった。意外に歩幅の大きな由莉の歩みに置いていかれないようにして、大通りや住宅地を抜けていくと、いつしか公園にたどりつく。
 それは川の両岸に細長くつくられた大きな公園だった。ごく最近整備されたものらしく、通路にはレンガ風のきれいな舗装がされていて、オブジェなのかベンチなのかわからないものがあちこちに設置されている。歩いて行ける距離にこんな場所があると知らなかったよもぎは、若者や家族連れのにぎわいにうろんな目を向けた。

 公園の間を流れる川はコンクリートで固められていてなんの匂いもしない。故郷を急くように流れていた谷川は、冷たく近寄りがたい、人とはちがういきものの気配が下にいくほど濃くなって沈んでいた。その違いに気を取られていたよもぎは、すぐ近くに恩がいることに気づかなかった。
「やあ」
「ん」
 軽く手のひらを見せて、由莉は恩のあいさつに応える。ごく親しい間柄のやりとりだ。
 週末に恩と一緒に外出しないかと由莉から誘われて、よもぎは一も二もなく了解した。一対一じゃないとはいえ、男と約束をして出掛けるなんて機会、生まれてこのかた持ったことがなかったし、これから持てるとも限らなかった。

 恩はよもぎを見やると、「どうも、この間はすみません」ときまり悪そうに微笑んだ。よもぎはぺこりとかたちばかりの会釈をしながら、陽の光の下にいる恩の姿を盗み見た。
 Tシャツから伸びる腕にはほとんど腕毛が生えていない。白いスニーカーは少しの泥跳ねもない清潔さだった。
「体臭が全然なくて、耳垢がカサカサに乾いてそうな男」
 そう心の中でつぶやく。薄暗くてよくわからなかったとはいえ、こんな男をどうにか自分の部屋に引き込もうと考えることに無理があった。

 三人は公園の中を歩いた。横並びになって、由莉と恩の間によもぎが挟まれる格好だった。
 はじめ、気を利かせた恩がよもぎにいくつか質問したが、よもぎの「はあ」とか「いえ」とかいった気のない返事のせいで会話にもならない。
 男体への興味が尽きないよもぎでも、由莉の手前、触れることも眺め回すこともできない男を前にしたら、愛想よりも憮然とした歯がゆさのほうが先に立つ。男のまれにみる清潔さはよもぎの調子を狂わせた。

 由莉がよもぎにはわからない話題を恩に振った。はじめはよもぎを気にして遠慮気味だった恩も、よもぎの無頓着さに甘んじるかたちで、話に引き込まれていく。
「お父さんはお元気?」
「うん。しばらく日本だったけど、今度ベルリンに赴任するって」
「相変わらずお忙しいんだ。でもベルリンなら恩のお父さんの気風に合っていそう」
「ほんとうは蟄居して本だけ読んでたいらしいよ。職業選択を間違えた人だね。レヴィナスとかヴェイユとか一度も開かずに積んであって、代わりに僕が読んでる」
 頭上をかすめていく会話を耳にしながら、この人たちはテレビに出てくる人間みたいなしゃべり方をする、とよもぎは思った。どこがどう違うとはわからないが、よもぎがけっしてしないようなしゃべり方だ。

 三人の歩いている近くにはドッグランが設置されていた。大型犬からうっかりつまずいてしまいそうなほどに小さいのまで、さまざまな犬が走ったり、吠えあったり、互いの尻の匂いを嗅ぎあったりしている。大きさやかたちが違いすぎるあの生き物たちがみな犬だということをどうして自分たちはあたりまえのようにわかるのか、ということを考えていたら、よもぎは由莉の言ったことを思い出した。
「私のあたらしい犬」と呼ばれたとき、憤慨も、もちろん喜びもなかった。湯上がりの、濃くなったり薄くなったりする蚊柱のような意識で、ああそうか、とだけ思った。そしてあとからゆっくりと納得が広がった。由莉がどうして自分に声を掛けたのかがわかった。そこに汚れた犬がいれば、放っておけなくて洗ってやる人間というのがいるのだ。

 公園の中にはカフェがあって、三人はそこに入った。川を眺めるテラス席に通されると、由莉はメニューに写真のある生クリームの載ったパンケーキを指して「お腹空いてない? おいしそうだし、あなたはこれにしたら」とよもぎに言った。とくに異論もなくうなずくと、恩が店員を呼び止めて注文をした。
 由莉と恩の間でしかわからない話をされていたとしても、その間、よもぎは二人からつねに気にかけられているのを感じていた。歩いている間はときおり目の端で微笑みかけられ、今は高いメニューの注文までしてくれる。たぶんおごりで。わずらわしいのかこそばゆいのか判断に困った。

 運ばれてきたパンケーキをフォークで突き刺して口に運ぶと、その甘さに喉の奥がきゅっと締まった。ふわふわとして腹持ちしなさそうな、絵に描いたみたいな食べ物だと思いながら咀嚼する。
 コーヒーを飲んでいた恩がよもぎにはわからない冗談を言って、由莉がそれに大きく笑った。そのまま体を折った由莉はすぐ隣のよもぎの二の腕に両手で触れて、首筋に顔を寄せた。熱くて甘い息が吹きかかった。
 その瞬間、よもぎの腰から首筋までを激しい快感が走り抜けていった。日ごろ由莉に髪を洗われているときには感じたことのないものに、あっと声まで漏れそうになる。

 由莉の体が離れたあとも、突然あらわれた感覚の不思議にゆっくりとまばたきをして、服の裾をぎゅっとつかんでいた。全身が快感の余韻になぶられている。微細な震えが続いている。由莉と恩はそんなよもぎの変化には気づいていなかった。

「ひゃあ!」と悲鳴が聞こえた。声のしたほうに顔を向けると、ドッグランから抜け出した一匹の犬が走る姿が見えた。
「こらマフィン! 戻ってきなさい!!」
 茶色の毛並みの犬は弾丸のように一直線に川に向かい、そのまま水の中に飛び込む。
「マフィン! マフィン!」
 飼い主の叫びを気に留めることもなく、陽の光を鈍く乱反射させる川面を割るようにして、犬は泳いでいく。
 ついに犬が対岸まで泳ぎ切り、水から上がった体を大きく震わせるまでを、カフェにいた三人は少しの声も漏らさずに見つめていた。
(つづく)

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