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[小説]夏の犬たち(5/13)– 前の犬

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 夕方になる前に恩とは公園で別れた。由莉とは公園を出て途中まで一緒に歩き、あとはそれぞれの家に帰る。そのつもりでいたよもぎに由莉が「ちょっとうちに寄っていかない?」と声を掛けたのだった。

 マンションに着くと、由莉はお茶を出してくれた。この部屋に通うようになってはじめてのことだった。歯を立てたら割れてしまいそうに薄いティーカップに淹れられた薄黄色のお茶はハーブティーらしく、くさいと思いながらよもぎはそれを飲む。
 由莉は手にしたカップに目を落としたまま、それを飲もうともせずに口を開いた。
「私と恩は幼馴染みでね。ときどきああして会ったりするの」
 ふーんと鼻から抜けたような声を出して、よもぎはお茶菓子に手を伸ばす。スーパーやコンビニではまず見かけない工芸品みたいに手の込んだクッキーで、噛めばバターの濃い味が口の中に広がっていった。
「私と恩を見て、どう思った?」
「どうって」
「二人が似てると思った?」
 食べてるときに話しかけないでほしいとわずらわしく感じながら、よもぎはさっき別れたばかりの恩のことを思い浮かべた。
「うーん、そう言われると似てるかな」
 由莉の腕も恩の腕もほとんど体毛がなくてつるつるとしていた。しいて言うなら、そこが似ているかもしれないと考えた。
「そっか。やっぱりあなたにもそう見えるんだ」
 由莉の顔に落胆とも安堵とも取れる薄笑いが静かに広がった。
「あなた最初に、私たちが付き合ってるのかって訊いたでしょ? それはね、ありえないの。私たちは生まれた家は違うけど、もしかすると血のつながったきょうだいかもしれないの」
 へーと相槌を打ちながら、よもぎはまたクッキーに手を伸ばし、このくさいお茶じゃないほうが合うのになと考えた。
「自分たちはきょうだいかもしれないって話を恩にしたことはないの。私だけが気づいてることかもしれないし、でも実は恩もわかってて言わないだけかもしれない。恩とは子どもの頃も今も仲が良くて、二人でいるとよく恋人同士なのかって尋ねられるの。でももしかしたらきょうだいかもしれない人間同士なんだよ? 笑っちゃうくらいありえない話でしょう?」
 由莉はガラスを引っかく音にも似た短い笑い声を上げた。

 そこでよもぎはようやく、この話を聞かされるために自分はマンションに立ち寄らされたのだと気がついた。
 由莉はほんとうは恩の恋人になりたいし、はたから見てそれに近い関係なのにもかかわらず、そうはできないと思っている。
 よもぎはその葛藤のしょうもなさにあきれ、「あほらし」とあやうく口にしそうになった。
 きょうだいがどうのと、なにか複雑っぽい事情をほのめかして、それを重要なことと思い込んでいるらしいが、男の体を前にしてもったいぶって怖じけてるだけじゃないか。
 それに「かもしれない」ことになんて目をつぶって、自分のやりたいようにするのが普通だろう。小さな子どもだってそうしてる。それなのに由莉は「かもしれない」の周りをぐるぐるとずっと回り続けているらしい。
 賢そうな顔して、ほんとうにこれで大学生か? 
 集落の秀才だったよもぎには、由莉がちゃんと受験を通過したのか、急に疑わしく思えてくる。

 公園のカフェで由莉の体が自分に触れたとき、どうして疼くような快感をおぼえたのかがわかった。由莉はほんとうは恩の体に触れたかったのに、よもぎにそうするしかできなかった。あの接触はきっと、恩と付き合ったりセックスしたりすることの代替だった。いわば、二人の未達のセックスの、前戯の途上に巻き込まれたのだ。
 静かになって冷めたお茶を飲む由莉の顔を、はじめて目にするもののようによもぎは見つめた。そして下唇を噛んでは放し、考えた。この意気地なしをうまく焚きつけられたら、恩と付き合わせることができるかもしれない。
 二人にくっついていたら、いつか本物のセックスを見られるかもしれない。
 相撲の行司みたいにして二人のセックスの横に張りつき、そのすみずみを仔細に見つめる自分を想像した。
 あるいはひょっとして、そこに混ぜてもらうことだって。
 ほくそ笑んだよもぎに気づいた由莉は小首をかしげ、つられるようにうっすらと微笑んでみせた。

 疲れたから少し寝かせてほしいと言って、よもぎはその晩、由莉のマンションに泊まった。そしてそのまま余っている部屋に居着いた。
 自分の狭いアパートに帰るのがめんどくさいというのと、なるべく近くで由莉を見張っておこうという用心に近い気持ちがそうさせた。
 よもぎが中学生のとき、母親が妊娠した。両親はその頃すでに同級生の親たちなんかよりずっと枯れて見える人々で、だから、照れのせいかそっけない報告を受けたときは、さして広くない家の、同じ屋根の下でいつのまに、と目を見張った。結局、流産になってきょうだいはできなかったけれど、このことは男女の間柄の油断のならなさとして胸に刻まれている。
 ぐずぐず言っている由莉だって、少し目を離した隙に恩との関係が進捗するかもわからない。いざというその瞬間に自分だけ蚊帳の外にいるのは絶対に許せないとよもぎは考えた。
 少し前にはじめて三人で会ったばかりだというのに、よもぎは由莉と恩の間に自分の位置を見出し、そこから頑として動かないことを、半ば義務か権利のように思い定めた。それはカフェで由莉から突然に与えられた快感を、付き添い人がもらえる片道切符として受け取っていたからにほかならなかった。

 はじめの一日二日、由莉はなんとかよもぎを追い出そうとしていたが、それはせいぜいかたちばかりの小言でしかなくて、じきにあっさりあきらめてしまった。なし崩しによもぎを同居人として認めてしまった由莉は、ある部分ではよもぎよりも怠惰といえた。
 通いで週に三回だったシャンプーは、由莉が気になるからという理由で毎日になった。
「夏になるのに頭のくさい人が近くにいるなんて耐えられない」
 由莉はもう、生まれもっての高飛車を隠さなくなっていた。覚えが悪く聞き分けのない犬のようによもぎを扱うことをためらわなかった。
 シャンプーのときのよもぎの頭の角度を容赦なく正し、食事のときの偏食や食べこぼしを叱りつけた。朝の洗顔でも落ちなかった目やにをタオルで乱暴にぬぐってやり、よもぎが自分のアパートから持ってきたくしゃくしゃに丸められた着替えをたたみ直して、それが下着も含めて衣装ケースの引き出し一段分にしかならないことに驚きあきれたような顔をした。

 鼻持ちのならなさをさらけ出すほどに、甲斐甲斐しくよもぎの世話を焼くのが由莉だった。
 どうして食事まで用意してくれるのか。自分でそうさせておきながら、小さな子どもしか持たないふてぶてしさで尋ねたよもぎに、由莉は肩をすくめて鼻で笑うように言った。
「自分で拾ったものだから」
 おそらく皮肉で言われたそれは、本人が意図したほどに皮肉には響かなかった。
 都会の人間は変わっていて気の毒だ。田舎を出て由莉しか知り合いのいないよもぎはそう考えた。

 毎日の習慣になったシャンプーの時間だった。頭を洗う手つきがこのところ雑になってきたし、毛が絡まって痛い、と顔にタオルを掛けた仰向けの姿勢のまま、よもぎが文句をつけた。
「うるさい。前の犬はもっと素直だったのに」
 ぴしゃんと耳の上を叩いて躾けるような声音で由莉がそう言った。
 はっと息を呑んだ気配のあと、由莉は黙った。頭皮と髪が泡立てられるときのシャカシャカという音だけが大きくなっていく。白いタオルの下でよもぎは目玉をキョロキョロと動かした。
 そうか。自分が「新しい犬」なら「前の犬」がいるのが当たり前だ。なのにそんなこと、ちょっとでも考えたことがなかった。

 その「前の犬」とやらは今どこにいるのかと不思議に思い、だけどここに戻ってこられても困ると考える。由莉と恩のセックスに別の犬がうろついたら、せっかくの場面で気が散るだろう。
 うす暗闇の中、黒く濡れた鼻先を光らせながら、長い舌を出し、人間とはちがう速さでハッハッハッハと呼吸をする犬がいる。それはよもぎの聴きたいため息や、噛み殺しても漏れ出る切なげな声をかき消してしまう。
 犬はくさい息のあくびをしたついでに、なにもない空間に噛みつくようにひと吠えする。後ろ足で首の後ろを掻いて、飛び散った毛が空中で金色にきらきらと輝く。そして気まぐれに首をひねり、人間たちが没頭する遊びに自分も混ぜてもらおうと近づいてくる。長い口吻であちこちのくぼみをつつきまわして、身体に浮かんだ汗の玉を舐め取ってしまうだろう。
 そんな邪魔だてを想像したよもぎは、見たこともない「前の犬」にいらだち、うっすらと敵愾心をおぼえた。
(つづく)

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