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[小説]夏の犬たち(2/13)– シャンプー

<第一話

 広くて物の少ない洗面所だった。てきぱきと椅子を用意され、鏡に背を向けるかたちで洗面台の前に座らされる。
「少しリクライニングさせるから、そのまま頭を下げて」
 こわばらせた背がゆっくりと後ろに倒れていくにしたがって、よもぎは動物じみた臆病さで椅子の肘掛けを強くつかんだ。罠にかかったという焦り。これ以上は倒れないというところまでくると、ちょうど洗面台の中に頭がおさまるかたちになった。
 姿勢の不自然さにうめき声をあげそうになったところで、いつ用意したのか目元にほどよい熱さの蒸しタオルを掛けられ、視界を塞がれる。
「大丈夫。力を抜いて」
 首と洗面台の間に丸めたタオルがかませられ、それに体を預けると、案外楽になった。

 合図もなく、サーッと音を立てて湯が落ちてきた。よもぎはタオルの下できつく目をつぶった。シャワーになった湯はいつまでも止まず、頭をやさしく打ち続ける。薄目を開くとタオルの白色しかなくて、故郷に降り積もった雪の世界ようだった。シャワーだけ出したまま女は消えてしまったんだと思い、身じろぎしようとしたところで、髪の中に手が差し込まれ、その瞬間、快とも不快とも区別がつかない感じに肌が粟立つ。

 その感覚をいったん飲み込むと、頭から上だけが自分から切り離された無関係なもののように感じられた。初めは湯だけですすがれ、それからシャンプーをつけて洗われた頭は簡単には泡立たない。一週間以上蓄積された皮脂の汚れは地層みたいに頭皮にこびりついている。表面に脂を浮かべたきたない泡が排水口に流れていくさまは、直接それを見ることのできないよもぎにも容易に思い浮かべることができる。

 大学に入ってすぐの数日は、二日や三日に一度は頭を洗っていた。実家でもそうしていたからだ。雪国育ちのせいか両親は根気強い人たちで、頭を洗いたがらないよもぎに繰り返し言い聞かせて、最低でもその頻度で洗わせていた。

 勉強の仕方のわからない一人娘に教科書を本文からキャプション、写真の模写も含めてノートに丸写しするという素朴なやり方をさせたのも両親だった。雪の重みでみしみし言う屋根の音を聞きながらノートに向かうよもぎの小指とその付け根は黒く光り、限界までちびた鉛筆は二十三本にもなった。そのおかげで、少子化が極限まで進んだ集落から出た、久しぶりの大学進学者になることができた。

 大学近くのアパートで一人暮らしを始めてから、次第に頭を洗わなくなったこと。中年のきょうだいみたいによく似ていた両親の顔が、離れてから二月と経たないうちに記憶から薄れて思い出せなくなりつつあること。よもぎはとくにそれらを結びつけて考えようとはしない。伸びたゴムが元に戻るように、自然と洗髪をしない自分になって、そこに落ち着いていた。

 シャンプーとすすぎが繰り返された頭は、五度目にしてようやく充分に泡立った。その間、よもぎと女は一言も口を聞かなかった。さっき目にした優美な指がよもぎの頭皮を軽やかに擦る感触と、シャワーがたてる惜しみのない湯の音だけがこの場を満たしている。

 毛量だけはやたらに多い髪をドライヤーで丹念に乾かされると、女は椅子を鏡に向けてくるりと回転させた。「ほら、見違えた」と疲れも見せずににっこりと顔を寄せた女は、よもぎの両肩に手を置く。
 普段鏡を見ることをしないよもぎには、頭のかゆみがおさまったという感覚のほかは、鏡の自分がさっきとどう違うのかわからない。しかし女につられるようにして、粒の大きな歯を剥き出して、ニイッと笑ってみせた。働きに対するいちおうの礼儀として。

 女の名前は佐伯由莉といって、学科はちがうがよもぎと同じ一年生だった。
「今日だけじゃなく定期的にシャンプーしなきゃダメ。またうちにきて。洗ってあげるから」
 人になにかを言いつけるのに慣れた人間特有の、さりげない押しの強さで由莉は言った。
 どうしてこの女が自分の頭を洗ってくれるのかわからない。わからないがしかし、そんなふうに道筋をつけられてしまうと、とりあえずは呑み込んでしまうのがよもぎだった。それで週に三日、決まった曜日に由莉のマンションでシャンプーされることが決まった。

 ファミリー向けとも思える広い間取りのマンションに由莉は一人で住んでいた。よもぎのワンルームの古いアパートとは大違いだった。
 午後の決まった時間に訪ねていくと、リビングではいつも天井についた大きなファンがゆっくりと優雅に回っていて、それを眺めるときは自然と少し口が開いた。

「いらっしゃい。時間は大丈夫?」
 由莉に訊かれると、よもぎは無表情にうなずく。時間ならいくらでも大丈夫だった。よもぎから由莉になにか訊き返すことはない。
 大学のほかによもぎに予定はなにもなかった。入学当初はアルバイトをするつもりもあった。でも、受けるはしから面接で落ちた。帽子もかぶるしガソリンの匂いで頭も気にならないだろうと受けたガソリンスタンドもダメだったとき、バイトする気はすっかり失せてしまった。いまは実家からの仕送りの五万円と学生支援機構の奨学金の五万円でつましく毎月を送っている。

 なにかをするために頭を洗おうという発想はよもぎからは出てこなかった。自分がそうすると想像しただけで滅入って、顔面がひくひくと痙攣してくるのを感じた。
 その拒否感を拭い去ったのが由莉のシャンプーだった。自分じゃなく、どこか遠くの誰かに起こってる出来事みたいにことが済まされてしまう。手品に使うクエスチョンマークのついた箱に頭が入れられて、ステッキが触れると新しい頭に変わっている。観客席からそれを眺める自分は古い頭はどうなったのかしらんと頬杖をついて不思議に思う。実際のシャンプーを見ることなんてできないのにもかかわらず。

 洗髪のおかげか、授業でほかの学生から露骨に避けられることは減った。すぐ隣とはいわないまでも、一つあけた隣の席に男子学生が座ることもあった。男子を横目に確認するとき、よもぎはほくそ笑んだ。目線を下げると、机の下に男の太ももが見える。ズボンに包まれた張りのある太ももが。
 ほんの少し手を伸ばせば男の身体に触れられそうなこと。それだけで好きに触れる許可と権利を与えられたような気になって、ほくそ笑みは隠しようのないニヤつきにかわっていき、熱い息に小鼻が膨らむ。よもぎの様子がおかしいことに気づいた男子学生は怯えた顔になり、椅子につまずきながら離れた席に座り直した。

 よもぎの男への、というより男体への興味が燃え上がったのと大学進学は時期を同じくしている。
 遅い性の目覚めには訳がある。故郷には同年代の子どもがほとんどいなくて、廃校間近の小学校には学年の離れた数人が通うのみだった。校庭の桜の木についた毛虫を空き缶に集めてそれに火をつけるのを楽しみとするような、いつ物心ついたかも定かではない半分夢の中にあるような時代だった。高校はバスと電車を継いで女子校に通っていたから、周りに徹底して同世代の男子がいなかった。

 積もる雪にすべてが押しつぶされそうになる冬みたいに、よもぎの性欲は本人にも隠され、息をひそめて芽吹きのときを待っていた。雪国の春が遅いかわりにその訪れが劇的なように、大学の入学式で数えきれない男子学生たちを目にしたとき、よもぎの中で爆発が起こった。瞳孔が収縮して口の中が渇き、興奮が身体の中に嵐のように吹き荒れて脊椎をしびれさせた。

 以来、どんな見た目をしていても、若い男の身体を持つ人間であれば誰にでも心奪われ、眼球から飲み干すようにその姿を見つめている。
(つづく)

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