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[小説]夏の犬たち(11/13)– 身代わり

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 九月になる。大学の夏休みも、うだる暑さもまだ続いている。由莉は修道女のような厳格さで、よもぎを矯正し続ける。軽蔑をにじませながら細い顎を上げ、なにかを迷いなく命じるときの、若さに似合わない居丈高は由莉の美しさを輝かせた。
 よもぎのゆるんだ体の線は徐々に引き締まり、黒ずんで粉を吹いていた膝は柔らかな薔薇色になる。仕上げが近づく。
 美容院に連れていかれ、伸ばしっぱなしの髪にはさみが入れられる。毛量が多すぎて、切られた髪が床を埋めんばかりになる。よもぎは椅子から首を伸ばして、さっきまで自分の一部だったものを不思議そうに眺めた。髪は最後に由莉と同じピンクがかったグレージュに染め上げられる。

 美容院からマンションに戻ると、由莉はクローゼットから一着のワンピースを取り出して、よもぎに着せた。ファスナーはほとんど官能的なうなり声をあげて、腰から背中へとスムーズに上がっていく。由莉はよもぎの髪をねじった束にして持ち上げると、うなじの一点に自分の愛用の香水を吹きつけた。部屋に、夜道に白く浮かぶ花の香りが広がる。
 ワンピースは真っ白だった。これからなにか染みがついて汚れるのを待ち受けるかのような白だった。あえてこの服を着せようと考えた由莉に、これみよがしな自傷に近いものを感じて辟易としながらも、よもぎはそれについて深く考えない。
 姿見に向かって並ぶよもぎと由莉の顔は当然、似ていない。けれども、立ち姿の重心の掛け方や、鏡に問いかける眼差しの色に、自分を明け渡すことと自分を注ぐことに躊躇のない者たちだけが近づける、はっとするような類似があらわれていた。

 夜になっていた。ときは来た。プランと呼べるほどのものはなかったのに、それでも機は熟した。
 由莉はスマホを取り出し、電話をかける。わずかなコールで通話は繋がる。
「恩? うん、私。ううん、どうもしないけど。……ええとね、よもぎがうちから出て行っちゃったの。……うん、それは大丈夫。だけど、ねえ、今からうちに来てくれないかな」
 なにげなさを装った声には電波には乗らない震えがあった。「ありがとう」と由莉は電話を切る。
「今から恩がここに来る。もう十分もしないうちに」
 由莉の青ざめた顔を見て、呼べばすぐに駆けつけてくれる男がいるというのに幸せではない人間がいるのだと、よもぎは今さら不思議に思った。
 段取りを決めていたわけではないのに、どうするかはお互い無言のうちに飲み込んでいた。玄関ドアの鍵は開けられ、すべての部屋の明かりが消される。二人は由莉の寝室に入る。よもぎはベッドに腰掛け、その本来の持ち主である由莉はすぐそばのクローゼットの中に身を潜めた。
 それは見つかることにも見つけられないことにも不安を覚えるかくれんぼみたいだった。暗闇は時間の感覚を飴のように引き伸ばし、そして縮めた。インターフォンの音が響いた。それは間を置いて、控えめに三回鳴った。

 ドアが開いた気配がして「由莉?」と恩の声が聞こえる。スイッチがわからないのか遠慮しているのか、玄関ホールから続く廊下は暗いままだったが、足音に戸惑いはない。
 あらかじめそう言われていたみたいに、恩は由莉の部屋の前で止まり、ドアを開いた。
「由莉?」
「明かりをつけないで。なにも言わないで」
 それを言ったのは由莉なのか自分なのか、よもぎには最早わからなかった。
 暗闇の中、恩は部屋に入ってすぐの場所に立っていた。その様子だった。静かな息づかいと香水の香りだけが空間を満たしていた。
 よもぎはベッドを軋ませて立ち上がる。自分の意志と由莉のそれとが、同じ香りの中で混ざり合い、区別がつかなくなっている。わずか数歩の距離を歩く足が、夢の中でそうしているときのように重たく、前に進んでいる気がしない。自分を亀のいる場所に永遠にたどりつけないアキレスのように感じる。
 しかし現実にはたどり着く。恩に。恩の身体に。由莉だったらこうするだろう。こうしたくてたまらないのだろう、というふうによもぎはその胸にしがみつく。
 恩は少しの間を置いてから、よもぎの体に腕をまわした。それを合図みたいに、よもぎの唇は恩のそれを探した。適度な弾力のそれを探りあてると、獲物をとらえた猟犬のような激しいよろこびにとらわれる。
 恩はよもぎに応えた。体と体の間に了解が醸された。二人は手探りでベッドに転がる。二人の重さのぶんだけスプリングが反発した。口づけを続けながら、恩の手がよもぎの背中のファスナーを探りあて、ゆっくりと降ろしていく。

 その途中、ファスナーが引っかかって止まる。少しの間のこと。よもぎは薄く目を開く。ふたたびファスナーが開きはじめたとき、違和感が生まれている。
 なんだこれは。
 そして気がつく。なにも見えていないということに。あんなに想像をたくましくした男性器の変化も、若い男の張りのある肌も、なにもかもが自分からは見えない。
 途端に脇に汗が滲む。口の中がカラカラになる。これじゃ暗すぎる。近すぎる。
 間違えた。自分の望みを取り違えていた。場所が違うのだ。よく見たいのなら、由莉がここにいて、自分がクローゼットにいるのが正解だった。
 花の香りを散らすように、別の匂いがあらわれる。瑞々しい草の間からぬっと姿を見せる。よもぎの頭から、つむじや生え際の頭皮から、脂じみたけもののにおいがして、それは無視できないほどに濃くなっていく。恩が顔を離す。
「由莉?」
 反射的に、よもぎは目の前のものに噛みついていた。
「痛いっ!」
 恩がよもぎから身をのけぞらす。口の中に血の味が広がる。バン、と音がしてクローゼットから由莉が出てくる。
「恩!!」
 明かりがつけられると、そこに鼻の頭から血を垂らした恩が呆然として立っていた。そしてぼんやりとした目で、ワンピースが脱げかかったよもぎと、震えている由莉をかわるがわる見て、悪い夢の中にいるように蒼白になって、踵を返して部屋を出ていく。
「恩! ごめん! 待って!!」
 由莉が遅れて恩のあとを追いかける。玄関ドアから二人が出ていった音がして、マンションにはよもぎだけが取り残される。

 なりゆきに放心して、身なりを直しもせずにベッドの上に座り込んでいた。シーツとワンピースに血の飛沫がついているのが目に入って、口の中に残る鉄っぽい味を意識させられる。 
 まったく、こういうふうに汚れるとは思ってなかった。よもぎはひとりごちた。
 夜が退けていく。カーテンが曖昧に光り、ベッドとその上のよもぎの輪郭を浮かび上がらせる。あっけなく朝が来る。誰に命じられたわけでもないのによもぎはそこから動かず、寝そべったまま白んでいく天井を見上げていた。
 昼近くになっても、由莉も恩も戻ってはこなかった。さすがに空腹に耐えられなくなって起き上がり、着たきりだったワンピースから普段のTシャツに着替えて外に出た。コンビニで適当にカップ麺とおにぎりを買って、それでひさしぶりに自分のアパートに戻った。
(つづく)

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