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[小説]夏の犬たち(8/13)– 泥だらけの犬

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 ミズナラから数メートルも離れていないところに犬は見つかった。腐りかけた切り株のそばにいたそれは真っ黒な宝石みたいな目を潤ませて、小さな体を泥に汚して小刻みに震えてた。
 恩の別荘の浴室で温かいシャワーで洗ってやって、こびりついた泥を落としてやると、それは灰色の小型のテリアだとわかったの。小さいから仔犬だと思ってたけど、ある程度のしつけはされてたから若い成犬だったかもしれない。
 濡れた体をタオルで拭いてやってたら、ちょうど恩のお父さんが通りかかって「拾ったのか」って訊いた。恩がそうだって答えると、特にたしなめることもなく「そうか」としか言わなかった。それから私に目をとめると、「お母さんによろしく」と目尻に魅力的な皺の浮かぶ笑顔をつくった。はい、と応えながら、そういえば自分は恩のお母さんに会ったことがないなって気づいた。別荘地でちょっと見かけたことならあるけど印象が薄くて、仕事とか家のことで忙しくしてて、夏の間ずっとは別荘に滞在してないって聞いていた。

 テリアの飼い主は見つからなかった。別荘に犬を捨てる人は珍しくなかったから、そういう捨て犬の一匹だったのね。
 恩はその犬にビルボって名前をつけた。それで、別荘の自分の部屋の隅に古い毛布で寝る場所をつくってあげて、エサの面倒もみたの。
 でもね、ビルボは恩だけの犬じゃなかった。恩と私の犬だった。恩と私とビルボはその夏の間、いつもずっと一緒にいたの。ミズナラの音は失敗したけど、音採りにもいつもビルボを連れていくようになった。ビルボは歩いていく私たちの足の間を器用にすり抜けるようにして、いつもちぎれんばかりに尻尾を振ってた。

 こんな光景を覚えてる。恩が別荘の庭先でヘッドフォンの片耳の部分をくるっと反対にして、ビルボになにか聴かせてる。ビルボは顔をかしげるようにして耳を少し上げて、じっとそれに聴き入ってる。それが終わると、恩はビルボの耳元でなにかを囁くみたいにしゃべりかけた。静かな熱とやさしさを込めて。その毛に自分を埋めるように。
 それを見たとき、私は見てるだけだったけど、胸が締めつけられて、涙が出そうになった。その瞬間、恩のことをほんとうにわかったし、ほんとうの友達になったと思ったの。ビルボを大切にして慈しんでる恩をずっと見てたい。十一歳の私にそういう願いがゆっくりと浮かび上がって、凝固した。
 恩とビルボは互いの言葉がわかってるみたいだった。ときどきビルボは遊んでいるうちにはしゃぎすぎて聞き分けがなくなることがあったけど、そんなとき恩はビルボを林の中に連れて行った。少しして戻ってくると、ビルボはすっかりいい子になっている。恩はビルボの落ち着かせ方をわかっていて、それは犬と特別な人間のあいだにだけ結ばれる特別な絆の証に思えた。
 だけど、その夏の終わりにビルボがいなくなった。私たちの前から消えてしまった。全部私のせい。

 その日、私たちはキツツキが木をつつく音を録るつもりだった。その音はこれまでもあとちょっとってところで失敗してたから、今日こそはと林の中に入ってキツツキの好みそうな古い木を探して、待ち伏せしようとしたの。
 でも、その日の私は朝から上の空だった。それは前の日に屋根裏部屋を漁ったから。
 好奇心だったの。子どもの頃、誰でも一度は家のあちこちを探ってみる時期があるでしょう? 別荘でそれをやったことがないのに気づいて、私は物置きになってる屋根裏をのぞいてみた。
 床には白い埃がうっすらと積もってた。小さな窓から小さく光が差して、私が動くと埃が渦を巻いて舞い上がるのが見えた。古い掛け時計とか、金だらいとか、処分に困った様子のあれこれが置いてあった。その中に一台のチェストがあって、私はなにかに導かれるようにその引き出しを上から順に開けていった。
 三段目の引き出しの奥、古い文房具に埋もれるようにしてその箱はあった。蓋を開くと、何通もの手紙の束が入ってた。私は悪いことだとも思わず、その一通一通を読んでいった。

 手紙の差出人には遠塚とあった。恩と同じ名前に、これは恩のお父さんだと思った。それは子どもらしい視野の狭さと早急さによる直感だったけど、結果として間違いじゃなかった。手紙はすべて私の母に宛てられていた。消印と文面からみて、二十代の若い頃、二人は恋人同士だった。まだ小学生の私にもそれは読み取れた。
 手紙の束の一番下に、書き損じのよれた便箋が一枚あった。母の字があった。「私たちはお互い結婚したのにこうしていて、この混乱のほぐしかたが私にはわからない」とだけ書かれていた。私はそこで顔を上げて、誰かの視線を感じたみたいに息を殺してあたりを見渡した。私の周りを埃がねじれながら舞っていた。それから手紙を元に戻して、屋根裏部屋からそっと降りていった。
 恩やビルボと一緒に古い木の幹の近くで息を潜めてキツツキを待つ間も、その手紙は私の頭から離れなかった。
 お母さんはあの手紙を家に置いておくことも、捨てることもできずに、おじいちゃまの別荘に隠してたってこと。書きかけの便箋。恩の話をしたときのお母さんの笑顔。そういう諸々が小学生の私の頭をぐるぐると巡って、ひとつの考えに固まりそうになる直前に崩れ、バターみたいに溶けていく。

 そうやって私は自分の中に沈み込んでいて、恩はキツツキの訪れを見逃さないように木をにらんでたから、天気の変化に気づかなかった。
 空が真っ黒な雲で覆われていた。バラバラと大きな音がした。夏の雹だった。同時に、空が鳴って雲の割れ目があやしく光った。
 雷が近くに落ちるのはすぐだった。私たちは驚いて、反射的に体を小さくした。ビルボのリードを離したのはそのときだった。
 そう、私がビルボのリードを握ってたの。音に驚いたビルボは木と木の間に身を躍らせると、雹に打たれてキャンキャン鳴いた。それでますますパニックになったのか、林の中を一目散に駆けていってすぐに姿が見えなくなった。
 激しい雹と雷があっけなく過ぎ去ると、私たちは暗くなるまでビルボを探した。全然見つからなかった。そのときに体を冷やしたせいか、翌日から私は熱を出して、二日間寝込んだ。熱がようやく下がってきた三日目に恩がうちにやって来て、まだベッドの中にいた私にやさしく言ったの。
「ビルボのことは、もう心配しなくていいから」
 その言葉で、ビルボが見つかる見込みがないんだってわかった。私は恩に自分の顔を見せられなくて、頭まで布団をかぶったの。
 その夏、どんなふうに恩と別れたか覚えてない。次の年からは勉強が忙しいって理由をつけて、私は別荘に行かなくなった。
 思春期にはまだ早かったけど、五年生の夏で自分の子ども時代は終わってしまったと、そう感じていた。

「……大学で恩と再会したとき、同じ学校に入ってたって偶然にびっくりした。でも驚きよりも先に怖さが来たかもしれない。ビルボのこともあって、ずっと嫌われてると思ってたから。なのに、恩は恩のまま変わらなくて、やさしくて。こんなやさしさや許しがまったくの他人に向けられるなんて、正直ありえないと思った。……だからね、やっぱり恩と私はきょうだいだと思うの。小学生のときには子ども過ぎてわからなかったことが、今ならわかる。だって、私と恩はすごくよく似たところがあるし、恩のお父さんと私のママ……お母さんは、お互いに結婚したあともしばらくはつきあってたんだから」
 うとうととしかけていたよもぎはテーブルに額をぶつけ、それで由莉の話と床の掃除が終わったことに気づいた。
(つづく)

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