[小説]夏の犬たち(9/13)– ペンギン
満腹になっていたから、由莉の長い話の間、よもぎは何度か眠りかけた。椅子の上で三角座りしていた足はだんだんと下に落ち、つま先が床の冷たいポタージュに触れるたび、びくりと体を震わせて目を覚ました。
半分まどろみながらも、話のおおよそのところはつかんでいた。それは集落の秀才のなせる技だった。よもぎは重たいまぶたの据わった目で由莉を見た。
くだらない話をよくもまあこんなに長々とできるもんだ。英語の授業で、若くてちょっとむっちりしたいい男の講師がこういうのにぴったりの言い回しをやってたな。ええと、あれは……So what? そうだ。それだ。由莉が焚きつけにもならないようなソー・ワット昔話をソー・ワット長々としたのは、お上品過ぎて自分でほんとに思ってることをわかってないふりをしてるからだ。それで、ふりをしてることに自分で気づいてないときた。
由莉は椅子に腰掛け、さっきまでの饒舌が嘘みたいに黙りこくっていた。どこか焦点の定まらない目の下には食事の前にはなかった青黒いクマがあらわれていた。よもぎは口を開く。
「要するに、子どもの頃に戻りたくて、あんたは新しい犬を見つけたんでしょう?」
よもぎがそこにいることを今思い出したとでもいうように、由莉はわずかに視線をよこしてから応えた。
「……私は、できるかぎり長く、恩と一緒にいられたらいいと思ってる」
「あんたはきょうだいだからあの男に特別に扱われて、ずっと一緒にいられると思ってる? ちがうよ。きょうだいは大人になったら離れるしかない。大人になった人間同士を結びつけるのはセックスだ。あんたたちがほんとうにきょうだいなら、あの男は誰か別の女とセックスして離れていくよ」
「でもそれは、そう長くは続かないんじゃないかしら。その力は強いけど、突然ぷつりと切れたり終わったりするものでしょう? きょうだいって関係に終わりはない。なにかに疲れたり倦んだとき、人は必ずきょうだいのところに戻ってくる」
由莉は表情を変えずに言って、顔を背けた。なにもない空洞に反響するような声だった。
強情め。よもぎは口に出さずに毒づく。
「でもさ、あんたは恩がほかの女とセックスしたとして、その間、自分のことをすっかり忘れられるのに我慢できんの? 恩がセックスにかぶりついてる間に、こうやって床でも拭いて待ってる?」
由莉を言葉でいたぶりながら、よもぎは毛虫を集めて火をつけたときのことを思い出していた。毛虫たちは声もなく身をよじり、黒く縮んで死んでいった。
よもぎにひらめきが差し込んだのは、そのときだった。さっき目にした稲光にも似たかたちのないものが自分の身体を走り抜けていく。それを逃さないように慎重に言葉を探す。
「……あんたは、恩がほかの女とセックスするのに耐えられない。だったら、女じゃなく、犬に相手をさせればいい」
由莉はよもぎから顔を背けたまま、凍りついたように部屋の壁に目を向けている。
「あんたの飼い犬に、私に、恩とセックスをさせればいい。私があんたの代わりにそうする。あんたの飼い犬なんだから、私はあんたの延長だ」
由莉は身じろぎもせず、固い表情を崩さなかった。しかし伏せたまぶたに微かな痙攣があらわれているのを、よもぎは見逃さなかった。
電車に乗って、三人は水族館に向かった。試験が終わって夏休みになったから遊びに行こう。そういう話だった。
入場してすぐのところに大きすぎる水の柱のような水槽がそびえていた。イワシの群れが銀色の体をきらめかせながら泳いでいる。
その光景に無邪気に魅入られている様子の由莉と恩とを、よもぎは横目でうかがった。
三人で会うのは、あの食事の夜以来だった。ほとんど追い出されたというのに恩は何事もなかったかのような笑顔を見せて、由莉もそれに倣った。
犬が消えても何事もない。きょうだいかもしれなくても何事もない。それがこいつらなんだと、よもぎはひとり鼻白む。どんな波紋を立てたってすぐに鎮まる。重たく沈んでいって身動きが取れなくなる。
だったら私がこの男とセックスしたって何事もなかろうよ。
あの夜よもぎが持ちかけたことに対して、由莉は結局なにも言わなかった。
珍しい魚を眺めるようによもぎは恩を眺めた。自分がいずれセックスをする男として遠慮もなく眺めた。
Tシャツの下のしっかりとした肩幅や大きな手、顎から喉仏にかけての、あるいは背中から腰にかけての線。身体のすべてに健康な若い男らしさが満ちていて、それは普段のよもぎだったら舌舐めずりせずにはいられないものだ。それなのに、恩の身体にはなぜか見る者の欲情を拒むところがあった。熱いお茶が目の前にあるのに、取っ手もなにもないツルツルとしたカップに入っているせいで手に取ることもできない。そういうもどかしさがある。
水槽から生臭さが漂っても、だらしのない寝姿が卑猥さを感じさせる海獣を前にしても、泰然とした恩の清潔さは失われない。
こんなとっかかりのない男と居続けたら、由莉がおかしくなるのも無理ないかもしれない。よもぎはそう思った。きょうだいかもしれないという疑いは、由莉にとっての障壁というよりむしろ溺れかかってすがりつくボートのようなものなんじゃないか。けれどもボートの中にあって、いまは渇きで死にかかっている。
よもぎは同情はしなかった。そういう感情は知らなかった。そんなもの、自分ののびのびと闊達な性欲の妨げにしかならない。
屋外にあるペンギンの飼育舎の前にやってきたときだった。小さな子どもがつまずいたのか、持っていたソフトクリームが由莉のスカートにべちゃりとついてしまった。恐縮して謝る子どもの両親に対して「お気になさらず」と鷹揚に告げた由莉は、誰かを許すときの優雅な美しさに満ちていた。
「お手洗いで落としてくるね」
スカートに広がった染みを指差して、由莉は屋内へと入っていった。
ペンギン舎の前でよもぎは恩と二人きりになっていた。ペンギンたちは岩場の上をよたよたと歩いたり、プールに浮かんだりしている。
いま一度、よもぎは自分の性欲を信じた。よもぎの視線に気づくと恩は微笑みを返した。それに臆することなく、よもぎは見つめ返す。恩の身体を、性的な目で。
ちりちりと微かに煙が上がる。縄文人の火おこしのようにゆっくりと、性欲が立ち昇る気配が起こる。陽炎が立つ。いいぞ。恩の身体に触れようと、よもぎが指先を伸ばしかけたそのときだった。
「ありがとうございます」
よもぎはびくりとして手を引っ込め、とっさに「なにが?」と訊いていた。
「こうして一緒に水族館に来てくれて。それだけじゃなくて、由莉と友達になってくれたのも」
「どうしてあんたがお礼を言うの」
「それもそうですね」と恩は笑った。
「僕はその、由莉のことを勝手に、ずっと心配してたんです。彼女は表向きの人あたりはいいけど、ちょっと繊細で、思い詰めるところがあるから。友達もいるにはいるみたいだけど、それほど親しいってわけでもなさそうだし。だから、よもぎさんみたいな人が由莉と仲良くしてくれてよかった」
「あたしみたいな人って?」
「ええとそれは、こう言っていいのか……健康的な人ということです」
健康的? よもぎは胸の内でふんと笑った。だったら、健康な女と男ですることをしようじゃないか。よもぎはさりげなく、恩と身体が触れあうぎりぎりまで近づいて言った。
「あんたの話はさ、ちょっと過保護みたいに聞こえるけど?」
恩はペンギンたちに視線を向けたまま、困ったように笑った。
「それは、その通りかもしれない。僕と由莉は古いつきあいで、子どもの頃、僕は取り返しのつかないことをして彼女を傷つけてしまった。だからずっと彼女のことが気がかりなんです」
傷つけた? よもぎの聞き返した声は、ペンギンの鳴き声でかき消される。何羽ものペンギンがホーンのようなけたたましさで鳴いている。
「僕は由莉が大事にしてた犬を逃してしまったんです。それで彼女はすごく塞いでしまって」
「えっ、犬を逃したのは由莉だって聞いたけど?」
「いや、僕です。犬をなくしたのは僕のしたことです。そのときから由莉は少し変わってしまった」
ペンギンたちは鳴き続け、その声はどんどん大きくなる。数えきれないほどの嘴が開いている。短い羽をバタバタとさせる音があちこちから響いてくる。
うるさい。ここはうるさすぎる。ペンギンってこんなにも鳴く生き物なのか?
「ほんとうに、かわいそうなことをした」
「あのさ」
言いかけてから、よもぎは違和感にとらわれる。さっきまでの喧騒が消えている。耳が痛くなるような完全な静寂。背中の毛がふわりと逆立つ。夏休みの水族館だっていうのに、時間が、なにもかもが、止まってしまったみたいな……。
「だから僕は、つぐないをしなきゃならない」
目を見開いたよもぎにその言葉は届かない。よもぎだけではない。ほかの客たちも足を止め、そこに起こった光景に目を奪われていた。
さっきまで狂ったように鳴いていた飼育舎のすべてのペンギンたちが柵越しに、恩を中心とした放射状に集まっていた。鳥たちは一様に、この人間になにかを預けるように頭を垂れているのだった。
(つづく)
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