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[小説]夏の犬たち(13/13)– 野良のけものたち

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 ビルボが逃げてしまった翌日、君が熱で寝込んでいる間に僕は一人でビルボを探していた。普段散歩していた林道や遊歩道だけでなく、人が入るのを禁じられているような山裾の林の奥にまで足を踏み入れた。間伐もあまりされていないような鬱蒼とした木々の間でコンパスを頼りに何時間さまよっていただろう。
 小さな鳴き声が聞こえて、そこに向かうと赤黒い血にまみれてうずくまるビルボの姿があった。近づいてみると、もうずいぶん長いこと放置されていたらしい錆びついた害獣用のトラバサミの鋭い歯がビルボの右足から胴体にかけてがっちりと食い込んでいるのがわかった。
 僕に気づいたビルボはそんな体にもかかわらず力なく尻尾を振った。小さな鳴き声と一緒に口から血が溢れた。僕はしゃがみ込んで、いつもポケットに入れていたアーミーナイフについていたドライバーでワナの金具を外そうとしたが、うまくいかなかった。その息づかいからビルボがひどく苦しんでいることも、もう長くは持たないこともわかった。

 ビルボはずっと僕を見つめていた。僕はビルボの頭を撫でながら、その腹の下にも手を伸ばした。下腹は血に濡れていたけど、性器は無事だった。それを手のひらでやさしく包むように握ってやった。ときどきビルボにさかりがついてどうしようもなくなったときに、そうやって手で処置してやってたんだ。もちろんワナにかかったビルボはそんな状況じゃなかったけど、いつもみたいにそっと触ってやるだけで、ほんの少し落ち着いた感じがあった。ビルボはまばたきをして、僕の顔から目を離さなかった。その瞳は僕がこの痛みを取り除いてくれると信じて疑っていなかった。
 決して抜け出せない夢の中にあるようだった。僕はナイフの刃を出して、ビルボにとどめを刺した。はじめてのことだったのに、どこに刃を入れれば的確に、あまり苦しまずに命が奪えるのかをどうしてか知っていた。
 命が失われるまでの少しの間、僕とビルボは見つめ合っていた。僕は木の根の間に伏せってビルボと同じ姿勢になっていたんだ。ビルボの眼から光が失われていくにつれてビルボの魂の半分が僕に流れ込み、僕の半分がビルボの体に注がれて、そこでだんだんと冷たくなって死んでいくのがわかった。

 別荘に戻ってからも僕はこのことを誰にも言わず、次の日、その場所に工具箱とシャベルを持って戻った。工具を使って罠を外し、ビルボの体をアーミーナイフと一緒に土の中深くに埋めたんだ。
 そのときに自分がなにか罪を犯すのはこれきりだと思った。自分の半分が死んで、半分が犬になって、もうこれで十分だと。だけどそうじゃなかった。
 あの日、よもぎさんが君の代わりにベッドの上にいた夜、僕を追いかけてきた君からすべてを打ち明けられて、自分たちはきょうだいじゃないかという疑念を抱いたまま、僕らは交わった。きょうだいかどうかという事実よりも、そうかもしれないと疑いながら抱き合えるところに僕らの罪はあった。
 でも一番の罪は、君と抱き合う最中に幸せを感じてしまったことかもしれない。僕らのしたことは間違いだったかもしれないけど、どうしても後悔の気持ちは浮かばないんだ。

 僕は二つの罪に手を染めた。この小さな人生でもうこれ以上のことはないだろう。だからこそようやく、と言っていいのかわからないけど、ようやく君のそばから離れる決心がついた。
 アイルランドでは父の昔の伝手を頼らせてもらって、教会のほかに遺跡とか古いものを見てまわろうと思っている。大学はひとまず休学にしたけど、戻るかはわからない。こちらの大学に入り直して宗教学について学ぶか、あるいは教会の中に入って働くということも、実は考えているんだ。
 信仰というものを自分がほんとうに欲しているのかはわからないけど、それを確かめたいというこの気持ちに身を任せようと思っている。
 自分の決めたことも、君に会わないまま出発するのも、こうせずにはいられないという僕のわがままだ。よもぎさんにも悪いことをした。僕達のことに巻き込んでしまって。彼女に謝っておいてほしい。
 僕は君がよもぎさんと親しくしていることが嬉しい。彼女からは君とはまた違った種類の魂の清らかさを感じて、そんな人が君の近くにいることに安心するんだ。
 僕のことを忘れてとも、忘れないでとも言えない。人は人に対してそんなことは言えない。心のうちで願うことしかできない。ただ、遠く離れたとしても、僕達が同じ世界に生きていることは事実で、その事実が過去とこれからの僕のことをずっと温め続けるのだと思う。

 僕の愛する、妹かもしれない由莉へ
 恩より

 読み進めるほどに、手紙を持つ自分の指先が冷たくなっていくのがわかった。力を入れすぎて真っ白になった爪で紙の束をテーブルに戻すと、よもぎは暗い目で由莉を睨みつけた。
「あんたたち、やったんだな」
 はいもいいえもなく、由莉は一瞥をくれた。蝶の羽ばたきにも似た神経質なまばたきを添えて。それだけだった。その態度に、よもぎの冷えた血が急に沸点を超えて溢れそうになる。
「……わかってんのか? おまえら変態なんだよ。さんざんもったいぶっといて結局きょうだいでセックスしてんじゃないか。おまえもあいつもなんだかんだ言葉をこねくり回してたけど、きょうだいのセックスで興奮したんじゃないか。自分らがどうしようもない単なる変態だって認めろよ! そうだよ変態、変態変態変態! そんなに、そんなに変態なら、なんであたしにセックスしてるとこ見せないんだよ!!」

 最後は叫び声になっていた。それだけでは収まらず、座っていた椅子を蹴倒すとすぐそばのカーテンをレールから強引にむしり取る。由莉のそばに近づくと、ソファに座る彼女の体の下にあるクッションを無理に引っ張り出し、唸り声を上げながら引きちぎろうとした。クッションは縫い目のところからみしみしとほつれていく。顔中の血管が切れそうな勢いでヴアアアと絶叫すると、クッションはついに大きく裂けた。中から飛び出した羽毛は舞い上がって空中に漂い、顔を赤くしてぜいぜいと息を荒げるよもぎの口の中に吸い込まれる。それに咳き込み、何度もえずきながら唾液と羽毛の塊をぺっと吐き出したところで、感情という燃料をすべて使い切ったような途方もない疲労感の中によもぎはいた。

 由莉は顔色ひとつ変えずによもぎの挙動を見ていた。この世に驚いたり悲しんだりすることはもう一つも残されていないので、仕方なしに目の前に流れていくものを眼に映す、というような表情だった。
 ソファの由莉を見下ろしながら、よもぎは手のひらで額と鼻の下の汗をぬぐった。においを感じたのはそのときだった。はじめは自分かと思ったが違った。身を屈める。由莉の頭がにおっている。
「あんたの頭、くさいよ」
 そう言ってもっと鼻を近づけると、ウェッとまたえづいた。よもぎは由莉の手をぞんざいに引っ張る。抵抗もなく、あっけないほど軽々と立ち上がった由莉をそのまま洗面所に連れて行く。

 においは頭からだけではなかった。由莉が動くとその身体から汗のすえたにおいが上った。うっと息が詰まりそうになる。これはもう風呂場でなんとかするしかないと、よもぎは由莉のうしろに回ってワンピースのファスナーを下ろし、下着を脱がせて裸にする。これがセックスした裸かと、ふだんだったらじろじろ見るところだが、汚れた下着や汗の溜まった垢じみた肌を目にするととてもそんな気にならない。いったい何日洗っていないのか。
 わずかな手応えもなくされるがままの由莉を浴室に押し込めると、少し迷ってから自分も服を脱いで中に入った。由莉を風呂の椅子に座らせて、熱いシャワーを浴びせる。二人の身体はたちまち湯気に包まれる。

 シャンプーを二プッシュして由莉の頭で泡立てる。途中もう二プッシュ追加する。膝立ちの姿勢になって指の腹でごしごしと洗っているうちに、由莉の頭はだんだん右に傾いてきて壁に寄りかかる。
 シューッとおかしな音がした。シューッ、シューッと繰り返されるそれは由莉の歯と歯の間から息が抜けていく音だった。嗚咽ではなかった。鏡に映るきつく閉じられた目に涙はない。威嚇しながら逃げ道を探す蛇にも似た音は、浴室に不気味にも滑稽にも響いた。
 そうか、あんたも動物だったんだな。
 自分ばかりが動物じみていると思っていたよもぎにとって、それは一つの発見だった。
 由莉だけじゃない。あの恩ですら動物なのだった。あの男にどこか人と違うところがあるとしたら、自分や由莉には思い及ばないような遠い存在、永遠や普遍と呼べるかもしれないものを自らの飼い主として深く望んでいるということだった。
「それじゃやりづらい」
 傾いた頭をよもぎがまっすぐに直すと、由莉は小さく「ごめん」とつぶやいた。まだヒトの言葉は忘れてないようだった。

 めんどくさいのでそのまま頭の泡を伸ばして身体も洗うことにする。背中も脇の下も乳房も性器もまんべんなく洗ってやる。人んちのシャンプーだからと遠慮することもなくさらに何プッシュか追加する。スポンジを使うとどんどん泡が立つ。笑えるほどに立つ。さすがにもったいなくなって自分の身体もそれで洗う。泡は不安を覚えるほどに増殖し続け、それにまみれたよもぎと由莉の身体の区別をつかなくさせる。
 とはいえ、腕が四本、脚が四本の哺乳類になったのは一瞬のことだ。二人の身体をつないだ密な泡はやがて途切れる。それぞれの汗と垢と体臭と欲求を白い毛皮の中に抱え込んだ、飼い主を持たない野良のけものが二匹、ここにいた。
〈了〉

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