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[小説]夏の犬たち(12/13)– 手紙

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 二月以上は空けていた自分の部屋は、由莉のマンションと比べて狭苦しいのにもかかわらず、がらんとして感じられた。買ったものを食べて昼寝をしようと横になると、頭がむずむずして寝られないのだった。由莉につけられた香水の香りはとうに消え、ベタベタと脂ぎる頭皮のにおいが気になる。毎日洗髪してたから、頭の汚れに敏感になっている。それを認めたよもぎは、なんだか自分に裏切られたように思った。

 観念したように立ち上がり、浴室の前に行ってのろのろと服を脱いだ。ずっと使っていなかった浴室を開けると、床や湯船が白い粉を吹いたように乾ききっている。
 中に入ってシャワーをひねると、あまりに使われていなかったせいかブブブッとおかしな音がしてから、少し遅れて湯が噴き出した。頭からそれをかぶると、シャンプーを手に取って髪につけて泡立てる。おそるおそる取り掛かったその動作に、忌避の気持ちや動揺はまるで起こらない。あんなに嫌がっていたことなのに、あっけないくらいに平気だった。湯上がりの湯気の立つ頭にタオルを載せたよもぎはなにかに騙されたような心持ちで、自分しかいない室内をきょろきょろとうかがうのだった。

 数日して、大学の秋学期が始まる。よもぎもにおわない清潔な頭で自宅アパートから通学をする。
 キャンパスで由莉の姿は見かけない。あれから彼女がどうしているかはわからなかった。恩と性交するという目論みも消え、シャンプーしてもらう必要もなくなった今、由莉のマンションにわざわざ立ち寄る意味もない。
 規則正しさや勤勉というよりも生き物に刷り込まれたかえがたい習性のように、よもぎは律儀に授業に出て課題をこなしていった。
 知らない男から声をかけられたのは、レポートのために大学図書館で調べ物をして遅くなった帰り道のことだった。
 青白く光る街灯の下、車同士がやっとすれ違えるくらいの細い道を歩いていた。向かいからやってきた一台の車の進みがゆっくりになって、よもぎの真横でぴたりと止まる。スモークの窓がゆるゆると開き、中年の少し手前という風貌の男が顔を見せ、よもぎに露骨に視線を這わせる。
「いま帰り?」
「はあ」
 なぜ自分が話しかけられているのかわからず、気の抜けた声が出る。
「よかったら乗ってく?」 
 知り合いと勘違いしてるのだろうか。疲れていたよもぎはなにか言う気にもならず、顔の横でぞんざいに手を振った。
「んだよ、ブス」
 顔色を変えた男は吐き捨てるように言って、走り去る。車が小さくなって、なんだったんだ今のは、と狐につままれた思いでよもぎはぽかんとする。

 自分がナンパされていたと理解したのは、それから数秒遅れてだった。男から性的な目的で誘いをかけられた。挙句、負け惜しみの捨て台詞まで吐かれたのだ。
 これまでに「ブス」だったことすらなかったよもぎは夜道の真ん中で立ち止まり、目を大きく開いていた。自分が男という存在を鬱陶しく思ったのも、これがはじめてだった。
 驚きは興奮に変わり、疲れを忘れさせた。このことを誰かに言いたくてたまらなくなった。回れ右をして、来た道を戻る。大学の前を過ぎても弾むような足取りで歩き続ける。
 話ができる相手は由莉しかいなかった。彼女のほかに知り合いはいなかった。よもぎは言ってやりたかった。やいやい! 世の中であんたにばっかりセックスの機会があるわけじゃなし。私にだってお呼びがかかるし、それを断ることだってできるんだ。 

 由莉のマンションにたどり着くと、インターフォンを鳴らした。応答を待ちきれずに連打した。しかしなんの反応もなく、しばらくして鍵がガチャリと開く音だけが聞こえた。
 よもぎは遠慮もなく、勝手知ったるふうに上がり込んだ。由莉の姿はそこにない。無人の廊下に照明がついている。人の気配のないしんとした明るさが西部劇に出てくる真昼の町の静けさを思わせる。
 リビングに入ると、ソファに由莉の姿があった。いつもは背もたれを使わない姿勢の良さなのに、弛緩したように身体全体をソファにまかせている。なにも映さないうつろな表情が明かりに白く浮かんでいた。

 こちらに目を向けようともしない由莉に、さっきの出来事をしゃべり散らそうとしていたよもぎの意気はくじかれる。よく見ると、由莉はあの日よもぎが着ていた白のワンピースを身につけていた。真っ白だったのが少し薄汚れた感じになっていて、赤黒くなった小さな血の染みもそのままで、それがなんとも不吉な感じがした。
「あんた、それ……」
「恩がね、いなくなったの」
 まばたきもせず、なにも塗っていないのに赤みの目立つ唇だけを動かして由莉は言い、顎先でテーブルの上を示した。
 テーブルには一通の封の開いた封筒があった。その分厚く意味深な佇まいはよもぎを辟易させるには十分だった。由莉の無言はしかし、封筒を手に取らずにいるのを許さない。よもぎは渋々、何枚にもおよぶ便箋を封筒から取り出して広げてみた。 

 親愛なる由莉
 この手紙が君に届く頃には、僕はもう君の近くにはいないだろう。ロンドンを経由する十五時間のフライトを終えてたどり着いたダブリンの街で、つたない言葉でもって右も左もわからずに往生していることだろう。
 アイルランドの初期教会群を訪ねたいというのが自分の中にいつ芽生えた願いかはわからない。だけど大学に入るよりもっと前から考えていたのは確かだ。アイルランドが地図のどこにあるのかも知らない幼い頃から、そういうものへの憧れがあった。どこまでいっても途切れることのない風景の中に途方もなく長い時間が横たわり、そこに置かれた自分の身が冷たい風や波に洗われて、ついには漂白された白い骨のような魂だけになる、そんな場所に。
 自分がこういうことを希求する自分になったのには、君やビルボの存在があった。君たちの存在が僕をつくってくれた。いまも君と過ごした子ども時代のあの幸せな夏が、どこか別の世界でずっと続いているような気がしている。
 君に言わなきゃいけないことがある。ずっと秘密にしていたことを。
 ビルボがいなくなったのは僕のせいだ。いや、いなくなったという言葉では足らない。僕がビルボを殺したんだ。 
(つづく)

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