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[小説]夏の犬たち(6/13)– 雷

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 大学が終わったよもぎが由莉のマンションに帰ると、ダイニングテーブルに食材の詰まった買い物袋が置いてあるのが目に入った。
「いま帰ったばっかりで、休んでから冷蔵庫に入れるから」
 ノースリーブから伸びる白い腕を椅子の背に絡めるようにして、言い訳がましく由莉が言った。よもぎの頭には手伝おうという発想も浮かばず、はちきれんばかりになって自立する袋をただ眺める。非力な由莉にしては、めずらしい量の買い物だった。
「明日、学校休みでしょう。恩を呼んで三人で食事でもと思って」
 そっぽを向いた由莉の声が小さくなった。

 次の日、由莉は朝からぴりぴりと張り詰めて、普段から掃除の行き届いた部屋にあらためて掃除機をかけたり、料理の下ごしらえにかかったかと思えば、一度着た服を別のものに着替えたりと、落ち着かなかった。
「恩にうちに来てもらうのがはじめてだから、それが妙な感じで」
 よもぎの視線に気づくと、気まずそうにそうつぶやいた。くるくると立ち働く由莉を見ているうちに、眠気に襲われたよもぎがソファに横になると、「邪魔」の一言で自分の部屋に追い払われる。
 敷きっぱなしの布団の上で目覚めると、窓の外は昼間みたいで、しかしそれは夏の夕方のまだ高い陽のなす明るさだった。
 のろのろと起き上がり、部屋から出たところで、ちょうど玄関ドアが開き、恩が姿を現した。恩はよもぎを見ると屈託なく微笑む。
「ああ、よもぎさん、こんにちは。お邪魔するよ」
 不意打ちに「アッ、ハイ」とよもぎは間の抜けた返事をした。

 ダイニングテーブルにはすでに料理が並んでいた。ラタトゥイユにゆでた米のサラダ、レバーのパテ、鶏肉のコンフィといったよもぎには馴染みのないものばかりだった。
 恩が「これ、僕も作ってきたからよかったら」と手にしていた紙袋を由莉に渡す。
「なんだろう。あっ、ケークサレ? おいしそう」
「うん、中はズッキーニとベーコンだからありきたりだけど」
 おかずなのかおやつなのかわからない料理をキッチンで切り分ける由莉に、日中の緊張は見られなかった。ほんとうにリラックスしているのか、緊張を無理に押し込めているのかは、キッチンカウンター越しのその表情からはつかめない。
 ダイニングテーブルに座るよもぎは小さく鼻を鳴らした。
 なんの進捗も見られず、幼馴染の仲良しのふりしかしない二人にハッパをかけてやる。そう思っていたのに、いざその機会が訪れると、具体的にどうするということを全然考えていなかった。

「さあ、食べよ食べよ」
「うん、いただきます」
「遠慮なくどうぞ」
 白々しい。米の飯が出ない料理も、二人のしゃべる言葉も、全部だ。ふいに凶暴な気持ちにとらわれ、食事前の空腹感との区別がつかなくなる。
「あれ、全然手をつけてないじゃない。ほら、食べて。ああ、ナイフとフォークなんて無理に使わないでも。箸もあるから」
 由莉から料理を取り分けた皿と箸を引ったくるようにして受け取ると、食卓の一点をにらみつけるようにして、よもぎは料理を口に運ぶ。
 よもぎがにらむのは恩と由莉とよもぎを三つの頂点としたときにできる三角形の中心点だった。由莉はよもぎの態度に肩をすくめ、恩に笑いを含んだ目配せをした。

 こいつら、私を緩衝材にしてやがる。
 腹立たしいのは、由莉が昼間の動揺をすっかり隠してしまったことだった。由莉の見せたぎこちなさや弱さが恩との膠着状態を崩すきっかけになりそうだと期待していたのに、結局はよもぎという盾に隠れて、自分を取り繕っている。
 臆病者の気取り屋が。二人きりになるのが怖いからって、私を間に置くしかないんだ。
 怒りにまかせて休みなく箸を動かしているうちに、よもぎの空腹は満たされてきて、次第に感情が鈍麻していく。由莉と恩はまたよもぎにはわからない穏やかな、差し障りもなくまた必然もない会話をしている。意味がわからないので外国語のように聞こえるそれを耳にしているうちに、さっきあんなに激しかった怒りの角がとれてきて、不甲斐ないことに単純な満腹感に取って代わられる。

 ごう、と小さく音がした。締め切った窓の外から聞こえるそれは突風らしく、見ると空が夜の訪れとはちがう塗りつぶしたような黒色になっている。
 遠くでごろごろいう音がしたが、それを聴いたのはよもぎだけかもしれなかった。
「あっ」と声を出して由莉が立ち上がった。
「ポタージュ、冷やしてたのに忘れてた」
 キッチンに向かった由莉が冷蔵庫を開けて中の鍋を取り出したときだった。空を割って紫の細い光が走った。わずかに間を置いて、壊れたシャッターを無理に引き下ろすような音が響く。稲光は空に身を躍らせるたびに太くくっきりとして、轟音までの時間が短くなっていく。
 よもぎは雷に魅入られていた。口を開いたまま窓の外を見つめた。停電したことにも気づかなかった。暗闇の中で稲光に照らされた由莉と恩がどんな顔をしているか、考えることもしなかった。誰も少しも声を発しなかった。

 稲妻で占められた視覚と聴覚に割り込むようにして、なにかがにおった。ピークを超えた雷が次第に弱まっていくにつれて、それが強く感じられるようになる。古びた油にも似たけものじみたにおいは、よもぎの頭からしているのだった。
 由莉が今日の準備にかかりきりだったから、昨日から頭を洗ってもらっていなかった。そのことに気づくと、よもぎは急にかゆみを覚えて、食卓にいるにもかかわらず頭を掻きたくなった。
 電気が戻ったのは、髪の中に指を突っ込み頭皮に爪を立てたところだった。向かいに座っている恩の目が大きく開かれている。その視線をたどると、白い顔をした由莉が鍋を手にキッチンとダイニングの境に立っていた。

 両手鍋は傾いていて、細くて白いビロードのリボンが垂れ落ちるように中身がこぼれている。音もなく、こぼれ続けている。足元を見ると、よもぎのつま先のほんのそばまでポタージュが広がっていた。原始の地球が冷えて、どろどろとした大陸が固まろうとしている。そんな広がり方だった。
 自分がどうしてこれを持っているのかわからない、とでもいうように手元に目を落とした由莉は、鍋をぞんざいにカウンターに置いた。
「ごめんなさい、私ったらうっかりしてて。私ったらいつもこう」
 か細く熱を感じさせない声が、よもぎと恩が動くのを冷たく制した。
「片付けなきゃ」
 手伝おうと立ち上がった恩に、「いいから、あなたまで汚れちゃう」と告げる声は思いのほかきっぱりしていて、恩はその場に固まった。
 雑巾を持ってきて、それを手にしゃがみ込んだ由莉は、床に目を落としたまま言った。
「悪いけど、今日はもうこんなになっちゃったし、帰ってもらえないかな」
「でも」
「雨ももう止んだでしょう?」
 恩は目を伏せ、なにかを飲み込むようにゆっくりとまばたきをした。そして悲しそうな笑顔を浮かべると、「わかった、今日はありがとう」とだけ言って後じさりし、部屋から出ていった。

 その間にも、ゆっくりと広がり続けた床のポタージュから避難するためによもぎは足を上げ、椅子の上に三角座りをした。そのまま尻をもぞもぞとさせ身じろぎする。椅子という孤島に取り残されたかたちになった。
「子どもの頃にね、こんなふうに大きな雷に出くわしたことがあったの。外で。恩と一緒のときに」
 よもぎに背を向けたまま、雑巾で床を拭く由莉が言った。
「そのときにね、犬を逃しちゃったの。大事な犬だったのに」
 由莉はよもぎにではなく、床に向かってしゃべっているようだった。床に張りついて手を動かしながら、ポタージュに言葉を吸わせるようにして、由莉は語りはじめた。
(つづく)

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