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私の仕事2〜勇気のいる飲みニケーション(統合失調症と診断された私が、結婚・出産し、公務員になった話その23)

私が障害者枠の採用試験で採用され、公務員になってから、3年目を迎えている現在までの経緯は、以下の記事に書いた。☟

今回の記事では、地方公務員として仕事をしていて、私が一番苦手意識があり、悩んでいることについて書いていきたいと思う。

ただし、どの自治体なのかなど、職場が特定されるような書き振りは伏せたいと思う。考慮しつつ、私が正直に思うところを書いていくとしよう。地方都市の公務員として働く精神障害者の一例ってこんな感じなんだなぁと、何かの参考としてお付き合いください。

私がとある地方都市の地方公務員として働いていて、まず感じることは、「昭和、平成で時が止まってるよな…」ということだ。地縁や卒業した学校や部活動に重きを置くネットワーク(野球部のOB同士の繋がりが強すぎる…)、はびこる上下関係は、令和の「風の時代」になった今も、従前としてそこに存在し、私をめたくそ窮屈にさせる。私はそういう「昔からの組織」に実はすごく苦手意識があることを、働いてから実感した。私には、職場内での古くからのコネクションやネットワークなど、一切なく、そんなんでやっていけるのか、全くもって自信はない。


18歳の頃、統合失調症と診断され、二十代前半までは不調と闘って生活していた。学生時代の人間関係を活かしてネットワークを広げるどころではなかったし、新しい人間関係を上手に形成していくこともできなかった。途絶えてしまった仲もたくさんある。体調が安定してきた二十代後半からは、徐々に人の中に入っていき、ごく少数ではあるが、付き合える仲間はできて、結婚もした。だけど、現在も娘のこども園のママ友たちや近所の人などと、すぐ打ち解けられる力や会話力は持っておらず、いまだに、「私って人を引きつける力ないよな…人間関係不器用だよな…」と感じている。職場にも、学生時代の同級生やOBがいるが、その人たちとの密な繋がりは一切ない。これから作っていけばいいのかとも思うが、自分にそんな能力があるのか、40手前の年齢で、思い悩んでいる仕末である。

長年働いている人や人当たりの良い人は、当然、様々な繋がりがある。私と歳の近い同じ課の先輩も、コネクションやネットワークが大事だと一際信じており、広げるために努力をしている姿が垣間見られる。

職場では飲みニケーションが未だ崇められている。二十代前半は不調との日々で、飲み会は数えられる程しか参加していない。飲みニケーション経験値が足りないことが私の悩みをさらに深くしている。コロナ禍に入所したため、同じ課の人と飲みニケーションをしたことは、まだ、ない。(親しい同僚との飲みや、組合のパーティーには参加したことはある)コロナが5類となり、最近では、課での飲み会があちこちで復活している。私の課でも、夏にイベントの打ち上げがあった。飲みニケーションをあまりしてこなかった私は、いざ、飲みニケーションしましょう、と言われると、ものすごくたじろぐ。えっ?えーっと…ド、ドウスレバヨインデショウ?コンナ、ナレナイオバサンガヒトリマジッテテヨインデショウカ?!と、カタコトの日本語になってしまうくらいのたじろぎ様だ。同じ課の人と飲みたくないわけではないのだが、飲んでいる向精神病薬と酒の相性も悪いし、もう大抵の21時には眠くて疲れ切っているので、よっぽど気の許せる家族や親戚以外とは、飲む機会が少なくなっていたことも、たじろぐ大きな原因だ。ぶっ倒れて迷惑かけたりしても困るからだ。子どももまだ小さいし、旦那も遅いし…と、いろいろ理由をつけて、結局今回の打ち上げは参加しなかった。しかし、そんなことはつゆ知らず、飲みニケーションに付き合わない私の評判は、おそらく、悪いと思う。最近では上司たちが私に聞こえるように、「やっぱさー、飲みニケーションしないとダメだよなー、人とナリがわからないよなー」と話していた。

私は聞いたことがある。コロナ禍となり、飲みニケーションができなくなって、安心した若い世代がいる、と。私が長年通っている美容院の若い男子も、飲みニケーションはあまりしたくない、美容院はそういうのないから楽だ、と話していた。今、若者の中で、私のように飲みニケーションに重きをおかない人もいる、と、私は聞いたことがある。それを聞いたとき、私は心から大きくうなずいた。


↑しかし、このYahoo!ニュースの記事では、意外と20代の若者も飲み会が好きな傾向にあることが報じられていた。

このYahoo!ニュースを読んで、私は考えた。もともと人付き合いが好きで、得意で、20代の頃から、楽しい飲みニケーションをたくさん経験した人は、きっと好きだろうな、これからもしていくんだろうな、と。病気の症状が一次被害だとしたら、若い頃に人間関係形成のノウハウを培ったり、ネットワークを広げられなかったことは、私にとって二次被害だ。そして、40手間の今でも人間関係に苦手意識があり、職場で飲み会があっても躊躇してしまうのも二次被害の延長だ。だけど、落ち着いて考える。病気があってもなくても、私は元々人間関係が得意ではなかったし、飲み会も率先して行かなかったろう、と。私は元々そういう人間だ、と。病気のせいではない。病気のせいにして、人間関係が苦手なこと、飲みニケーションに躊躇することから逃げるのはやめよう。真正面から受け止める。私は元々人間関係が苦手だ、飲み会も苦手だ。それが必要とされる職場にいることは、時にしんどい。しかし、最低限でもコミュニケーション力は仕事に必須なことも痛感している。

☟この記事は、私が公務員として働く上で最低限必要だと思うことを書いたものである。

飲みニケーションのことを検索すると、「飲み会嫌いなやつ、出てこないやつって人生損してるよね」というスレッドを立てた人がいたらしいことがわかった。一理あるのかもしれない。ネットワークを大切にする先輩は、飲み会後も、上司と盛り上がって楽しそうに飲み会のときのことを話していた。その笑い溢れる輪の中に自分が入れないことは、疎外感があり、寂しかった。先輩は、相変わらずメタメタに怒られているときもあったが、私が怒られるのと、先輩が怒られるのとでは、先輩の方が後々笑い話にさせてもらえる。先輩の方が怖い上司も充分味方につけている。そういう点では、飲みニケーションはとても有効なものなのかもしれない。

二十代後半から回復し、今でも疲れやすさと付き合いつつ、家事、子育て、仕事をして生活している私。本格的に働き始めたのは29歳からだから、現在、働いて丸10年だ。そう考えると、本格的に社会デビューしたのは、まだ10年と言ってもいい。他の人と全く同じようにできる自分じゃなくていいとは思っている。リハビリの真っ最中のつもりでいればいい、と。他の人と少しズレた大人になり、それでも私は働いている、子育てもしてる、違和感を感じられながらも、今日も生きている。飲みニケーションを当たり前にできる人たちと肩を並べ、他の人と同じように器用にやれることを望まれる組織にいて、おにぎりの型みたいに、私はそこにはまって、望まれるおにぎりになろうともがいている。自分はもしかするとパンの部類かもしれないのに。そんな滑稽な自分の有り様を、おかしみながら、書くときだけは自由な翼を広げて、ここに書いている。

いつか、同じ課の人たちとの飲み会に、参加してみようかな?と思う自分もいる。どうしても気乗りしないのなら、無理しなくていい、と自分をなだめる自分もいる。障害者枠で採用された私が、他の人と全く同じようになんて、できないのは承知だ。だけど、だからと言って、できないできないと壁を作ってばかりなのも、違うのではなかろうか。「自分なんて、受け入れてもらえるはずない。普通の人と同じように、みんなに受け入れてもらえるはずない。」ひょっとして根底にはそんな多大なる恐怖心が渦巻いているのかもしれない。恐怖心に飲まれてばかりいないで、少しは飲み会で酒に飲まれてはどうか?ハプニングも笑い話にしてもらえるかもよ?恐怖心とほんの少しの勇気の狭間で今日も揺れながら、パソコンを淡々と叩いている。



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