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「麒麟」に会いに

皆様こんにちは。
本田拓郎(Takuro Honda)と申します。
この記事へお越しくださいまして、ありがとうございます。

 このnoteでは、今現在観光業に就いている私が、私の目線で、「観光・旅行・歴史・文化・教育」について、知識や新たな発見の提供、その他自論を展開し、古代ギリシャでいう「アゴラ」のような場所を目指します。私が勉強していることを皆様とも一緒に学ぶというスタイルで、記事を創っていきます。

 皆さんはNHK大河ドラマの『麒麟がくる』はご覧になったでしょうか。私はどっぷりハマり、あまりこういう言葉は使いたくないですが、「ロス」です。そんな私と同じロスの皆さん、先日私は光秀の居城であった福知山城へ行ってきたので、ざっくり感想と、福知山を訪れて感じたことをここでお話したいと思います。

拙い文章力と乏しい考察力ではありますが、
最後までお付き合い、お願いいたします。

1.丹波の拠点として

 ドラマを見ていた方はご存じだとは思いますが、明智光秀は織田信長の側近として、戦国時代を生きた人物です。その信長は「天下布武」を掲げ、武力による天下統一を目指します。

 その1つとして行われたのが、「丹波攻略」です。光秀は信長よりこれを命じられ、金山城を築城し拠点としました。

 光秀は1579年に攻略を開始し、なんとその年内に丹波を平定させます。彼は策士だったのか、相当頭の切れる天才だったのか。その後丹波の拠点を福知山と定め、城を改修し、「福智山城」とします。当時は「知」の表記が違ってるんですね。光秀は福知山の地で様々な政策を施し、領民から厚く信頼されていました。

 彼が行った政策は大きく2つです。まず、由良川の治水工事です。今も福知山市内を流れるこの川は、何度も氾濫を繰り返す暴れ川であったことから、福智山の人々の生活においては頭痛の種でした。しかし、光秀が治水を行ったことで劇的に改善され、市民の暮らしに平穏をもたらしました。

 そして、徴税の免除です。由良川の氾濫等で農作物が育たず、経済的に苦しい領民が多かった福知山では、税の徴収はそれに追い打ちをかけるものでした。しかし、光秀は税を免除したことで、領民を生活苦から救い、なおかつ、市全体の経済を潤しました。

 これらの政策を敷いたことで、福知山は豊かな街となり、発展を遂げたのです。その基盤を築いた人物こそ、明智光秀なんですね。大河ドラマのタイトルにもある『麒麟』は、善政を行う者の前に現れるという伝説上の動物です。その麒麟は、本当に光秀の前に現れていたのではないでしょうか。

2.福知山の発展

 前章で述べた通り、福知山発展の基盤を築いたのは明智光秀です。しかし彼が福知山を治めていた期間はおよそ3年という短いものでした。なぜかというと、ドラマをご覧になっていた皆さんはおわかりですよね。

 1582年6月2日、光秀は仕えていた織田信長に反旗を翻します。本能寺の変です。これにより織田信長は自害し、光秀がトップに上り詰めます、しかし黙っていなかったのは羽柴秀吉。高松城で毛利軍を攻めていた秀吉は、本能寺の変の報せを聞くと、高松城攻略を中断し、一気に京都へ戻って来ます。「中国大返し」ですね。そして同月13日に山崎の戦いにて明智軍に勝利し、1590年の天下統一へまっしぐらというわけなんですね。

 山崎の戦いで敗れた明智光秀はそこで亡くなったか、生き延びていたか、様々な説がありますが、ここではいったん置いといて、この戦の後の福知山はどうなったのでしょうか。

 山崎の戦いによって敗れた明智家はこの福知山城も追われ滅亡したと言われています。その後は主に、関ヶ原の戦いで西軍から東軍へ寝返った朽木家が代々治めることになります。朽木家は代々、多彩なタレントを持ち、天才の家系でした。それぞれの城主が様々な策を施し、福知山を守っていました。

 街はというと、山陰街道宮津街道がぶつかる交通の要所として発展を続けていきます。内陸の都である京都から丹波、そして日本海に面する因幡や天橋立といった港湾都市へ抜ける、重要な拠点でした。

 民から高い支持を得ていた明智家が街からいなくなっても、福知山が発展をし続けたのは、明智光秀が3年しか統治していなかったにも関わらず、政治の基礎を盤石になものとして確立していたからかもしれません。歴史にタラレバはないですが、本能寺の変後も明智家が福知山を治めていたら、現在の京都府福知山市の姿は、全く違ったものになっていたかもしれません。

3.今でも英雄

 現在も明智光秀は、福知山市民に愛される存在だと感じることが出来ました。

御霊神社

市内にある御霊神社は、明智光秀を祀った神社です。お社には明智家の桔梗の家紋が飾られています。ものすごく大きな神社ではないですが、神社の前は広い公園となっており、私が参拝した時は、小さな子どもたちがボールを追いかけてたり、鬼ごっこしてたり、自由に遊べる空間が作られていました。これも明智光秀が見守っているからなんでしょうかね。

 多くのメディアで、明智光秀は現在も福知山市民に愛される存在と採り上げられています。まさにその通りでした。大河ドラマも街を上げて盛り上げていましたし、高速道路を降りてすぐの歩道橋にも、横断幕が飾られていました。明智光秀は今でも、福知山のヒーローなんですね。

 私は気付かないうちに、福知山で麒麟に会っていたのかもしれません。

今回も最後まで読んでくださいまして、誠にありがとうございます。
また次回お会いしましょう。
Ciao...

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