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現実感覚の消失。僕は今何処で何をしているのだろうか。

平穏を許容できない人間は死ぬ迄苦しみ続ける他ない。

「なんて僕は自分勝手な人間なんだろう」

今日も僕は自己嫌悪に侵されている。

何かに夢中になっている時は、人からの連絡を一切返さない癖に、ストレスが溜まり寂しくなった時には他人に縋ろうとする。

余りにも身勝手過ぎる自分を殺したくなる。

何もかもが上手くいっていない感覚がある。抽象度が高くなって何が言いたいのかがまとまっていなければ申し訳ない。僕が今夢中で取り組んでいることが、自ら望んでしていることなのかと言うとそうではない。自分がやるしかないから自己暗示をかけてひたすら躁によるブーストで脳に対して楽しいと錯覚させている。

本当に大切にすべきはきっとそこには無くて、自分を理解してくれている人や好いてくれる人との充足した時間だと思う。

「ならそうすればいいんじゃないか」と思うかも知れないが、そうはいられない。先ず僕が辛いことを全て放り投げて、親しい人たちと幸ある時間を過ごせば何もかもが上手くいくのかというとそう思えない。

先ず現実的な話をすると、僕には多分時間がない。抱えている病気の状況がよろしくない。服用する薬を増やし続けることで凌ぎ切ればよいが、いつ昔のように崩れ落ちるかも分からない不安定な状態にいる。

そうなれば親しい人たちと関わり続けることは出来なくなってしまう。

矛盾しているのかも知れない。「終わりがあると言うならば、残された時間はせめて自分のやりたいことをするべきではないか」と何処からとも無くそのような声が聞こえてくる。

偽善者と言われるかも知れないが、例え限りある命だとしても、最期まで自分を好いてくれていたり、寄り添ってくれる人たちのために、僕が出来る最大限のことを行いたい。

「本当は君のためだ」とか「君たちが幸福で過ごせるように」とかそんなことを言ったとしても、連絡を返さなかったり、時に冷酷な決断をしたり、いい加減な一面を見せる僕を人はきっと酷いやつだと言うのかも知れない。

それでいい。今僕がしていることは紛れも無い自己満足に過ぎないから誰一人として僕に対して罪悪感を感じる必要はない。

ただ本当は何も考えずに穏やかに生きていたい。

時間に捉われず、人間関係に縛られず、只々在るが儘に過ごしたい。

虚無を超え、僕は今は全能感と孤独感と希死念慮が再び心の中で蠢いている。

今無理矢理にでも進めていることの先に、自分が求める理想の世界があるのではないかと思い、それがまた自分の周りにいる人たちにとっても幸あるものになるはずだと、そんな想いで日々を生きている。

「無理せずに自分らしくなりたい。けど同じように苦しんでいたり、僕にとって親しい人たちは必ず救いたい」

そんな無茶苦茶を叶えるために、僕は今日も終わりの無い戦いを繰り広げている。

目を閉じて理想の世界を想像してみた。


 

静寂だ。

人工的に生み出された雑音の一切は無い。

鳥の囀り、水のせせらぎ、風の囁き。

全ての音が心地よい。

人は皆優しそうでどこか陰りがある。

絶対的な安心感がある。

寂しいときはいつだって甘えられる。

楽しいときはいつだって分かち合える。

眠たくなったら眠る。

食べたくなったら食べる。

寂しくなったら求める。



「そうか、僕は自由になりたいのか」


理想とする世界。
きっとそれは自分にとって都合のよいものだ。
我儘を全て許容してくれる環境を欲している。
なんて僕は身勝手なのだろうか。
しかし自由と身勝手に違いなどあるのだろうか。
恐らくない。
自由とは身勝手を受容することなのかも知れない。
もっと自己中心的でもいいのも知れない。
己のエゴがもしかすると人の役に立つのかも知れない。
いったい自分は何のために生まれたのだろうか。
きっと意味なんてない、死ぬためだ。
今も声を押し殺し息を潜めて生きている。
そんな日々に果たして意味はあるのか。
きっと自我がある以上は、無理なんてせずに終わりに向けて好きなように生きるほうが良いのは間違いない。
絶えずストレスのシャワーを浴びないで済むように。
まあそんなことは叶わないのだけれども。

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