予約投稿を使わないnote連続投稿500日の軌跡~投稿のメソッドと気付き~
2020年5月19日、皆様のおかげをもちまして、noteへの連続投稿が500日を達成しました。改めてお礼申し上げます。
このnoteは、日々日経電子版の記事を読み込む中から、気になった記事を選んで、自分なりに整理し、出来れば自分なりの考え、見解を付け加えようと取り組んできたものです。その意味では、新聞に限らず、世の中の様々な媒体から注目すべきコンテンツを取り上げて、自分なりに整理し、自分自身の、自分ゴトのオピニオンへと昇華させる作業であったかも知れません。
特に変わった事をやってきた訳ではありませんが、これを機に振り返りをしてみる事にしました……
【1】投稿を始めて、連続500日に至る気持ちの変化
実は、私のnoteは、500日前に始まったものではありません。
もっと昔、2018年2月3日に、noteに統合される前の「日経COMEMO」に投稿したのが始まりです。「COMEMO」は、「(COMEMOトップページより)「書けば、つながる」をスローガンに、より多くのビジネスパーソンが発信し、つながり、ビジネスシーンを活性化する世界を創っていきたいと思います」と謳っており、当時既に日経電子版の愛読者であった私は、その投稿機能に注目しました。もともと文章を書くのは好きな方だったので、多少ドキドキしながら投稿してみたのです。
驚いたのは、その数日後です。私の投稿が「COMEMO」のトップページに掲載されたのです。正直「ワ~オ!」という感じでした――何と言っても天下の日経新聞ですから――。
今から思えば、これはビギナーズラック、珍しく投稿してきた読者を励ます位の意味だったのかも知れませんが、これで俄然やる気が出ました――ある程度のレベルのものを書けば採用してもらえるんだ!――。
それ以来、連続投稿ではないものの、日々日経電子版を読み込み、気になった記事に投稿する習慣が始まりました。
最初の頃は、文体も、記事のレイアウトも、投稿スタイルも何も固まったものがある訳でなく、また、いざ書こうとすると、正確な意味、定義も良く分かっていないビジネス用語が頻出して(一つだけ例を挙げるなら、〇〇ドリブンって何だ?、という感じ)、投稿が楽しいというより、苦痛を感じることもままありました。
それが続けられたのは、何と言っても、その後もしばらくはビギナーズラック(?)が続いたからです。途中で止めてしまいましたが、初めの頃律義に付けていた投稿記録を見返してみると、「COMEMO」のトップページに紹介してもらった回数が誇らしげに記帳されています。
そして、それ以上に大きかったのは(励みになったのは)、日経電子版そのもののトップページに「COMEMO 注目の投稿」という欄があるのですが、そこに何回か取り上げてもらえた事です。これはもう日経新聞電子版そのもののトップページですから、ズシリと嬉しさが込み上げます……
そうこうするうち、私事ですが生活の大きな変化、引っ越しなどが重なって、3カ月ほどの中断がありました。私の500日連続投稿は、その生活の変化が少し落ち着いた2019年1月6日に始まりました。
継続するうちに、別の章で詳述しますが、次第に、文体・レイアウト・投稿スタイルなどに自分の流儀が確立され⇨徐々に書くことの苦痛が消えていって⇨新聞をただ読むだけでなく、自分なりに考えて文章化する作業が与えてくれる学び、継続することの楽しさ、といったものが感じられるように、気持ちが変化していきます。
一つだけマイナスな点を挙げるとすれば、ついにビギナーズラックに終焉が来た(苦笑)ことでしょうか。結局、自分に出来る事は、日々貴重な情報源となっている日経電子版に目を通し、そして、常に自戒しながら淡々と文章を書き続ける事だけです。
連続投稿500日目の投稿が完了した2019年5月19日10時11分、穏やかな喜びと安堵感が湧き上がってきました。投稿を継続する日常が出来ていたので、あえて言えば、500日達成は時間の問題だったとも言えますが、うっかり投稿を忘れてしまう事だってありうる訳です。ホッとした、というのが大きいかも知れません。
連続投稿500日の気持ちの変遷、それは、投稿という作業の発見⇨嬉しい驚き(ビギナーズラック)⇨文章化するという作業の苦痛⇨外部からの励まし⇨自分の流儀ができていく実感⇨継続の喜び、という流れでした。
【2】注意しているコトなど
連続投稿を500日継続するに当たっての気持ち、心持ちの変化をみてきましたが、ここからは、具体的に投稿、執筆そのものについて触れていきます。
初めに執筆に当たって注意している点(もちろん、100%貫徹できているとは思っていません)、そして、書くコトをイメージする作業、投稿のレイアウト、日々投稿するその執筆スタイル、書き続けるコトの効果の順にお話ししていこうと思います。
(1)ネガティブなコトは書かない
世の中のネガティブな物事にも目を向けることは大切なことですが、この点については、「注意しているコト」というより、編集方針としてなるべく「ネガティブなコトは書かない」ことにしています。
〔註〕ポジティブなコトを書こう、書こうとしているせいか、私の投稿では
『ポテンシャル(可能性・潜在力)』という言葉がたくさん出てき
ます。
(2)批判的なコトは書かない
実際にやろうとすると分かりますが、特定の企業等について批判的、攻撃的なコトを書くのは勇気のいるものです。それに、そもそも、批判的なコトを書くつもりも全くありません。
この点については、私の父の言葉を引用しておきます――「人には必ず良い所がある。人と付き合う時は、その良い所と付き合う」――。
とは言っても、多少なりとも批判的になってしまい、投稿するか迷ったようなケースがない訳ではありません。某大企業が数値計画のない中計(中期経営計画)を出してきた時、そして、内定辞退率問題、SNSの個人情報流出問題などについて考えた時です。
(3)捨てる勇気
「投稿するか迷う」という事に触れましたが、私の性格のせいか、一度書き始めて下書き保存した記事を、なかなかうまく書き進められなくても、なかなか諦めきれない、という事が初期にはありました。
よくよく考えれば、初動でのテーマ選択の誤り、題材の選択間違いというのが当然ある訳で、ウジウジ悩んで長い時間をかけて投稿しても決していい投稿にはならず、早い段階で見切りをつける、捨てる勇気が必要だと思います。
(4)批判と課題・問題点の洗い出しは違う
投稿で自分の意見をまとめて表明する以上、考察対象のプロダクト(モノ・サービス)などについて、その課題・問題点の洗い出しを行い、その可能性を考えることは必須の作業であり、そもそも、その作業無くしては何も書けません。この点は、単なる批判とは一線を画するものです。
(5)言葉を正しく把握する
特に新聞紙上では、聞き慣れない言葉・新しい言葉・ビジネス用語・IT用語などが頻出しますので、最初の頃は随分と苦労しました。
分かっていたつもりでも、実は漠然としか理解しておらず、そのレベルでは自分の文章の中では使えないからです。後の章でも触れますが、言葉を自分ゴトとして使おうとすると、その言葉に対する理解が深まります。
(6)文章を正しく理解する
日々丹念に紙面に目を通していると、例え正確性の要求基準の厳しい新聞の記事であっても、人間が書くものである以上、(細かい部分で)違ってるんじゃないか、どっちに取ればいいんだ、と悩むことがあります。もしかしたら、新聞特有の流麗な文体に起因している面もあるかも知れません。
例えば、次のような事例で、どの部分が曖昧になっていると思われますか?――
――具体的な記事を取り上げる訳にもいかないので、分かりにくいかも知れませんが、この文章で曖昧になってしまっているのはサービスAのeというオプションです。
――常識的に考えて、サービスAに関する記述ですから、eというオプションは、サービスA全般について「できる」コトのように見えます。
――ですが、問題はセンテンスが1と2に分かれてしまっている点です。eというオプションは、サービスAの中のオプションdについての範囲の中でだけ「できる」コトなのかも知れないのです。
このようにどっちとも取れるケースは時折見受けられ、いくらその記事と睨めっこしてもどっちなのか結論は出せません。そういう時、一番確率の高い解決法は、そのプロダクトを出している企業のサイト、一次資料に当たってみる事です。それでたいていは判別がつきます。
残念ながらいくら調べても分からない時は、自分の投稿の中でその点に触れないようにするしかありません。細部に関わる事なので、そのせいで投稿自体を止めた、というようなケースは今のところありません。
また、明らかにあやふやな点(例えば、ある身近にある品物の新しいメカニズムを紹介する記事で、肝心のそのメカニズムを構成する部品を取り違えているんじゃないか、など)がある場合など、一次資料に当たって自分の投稿では正確を期す(正しいと思われる部品名で記述する)ようにします。細かい点で元記事に疑問な点がある場合、自分の投稿でそれを引き継ぐことはしません。ちなみに、是非はともあれ、ナイーブなたちなので、いちいちその点を新聞社に連絡するようなことはしません。そもそも、そのようなケース自体が滅多にない事です。
(7)文体をどうするか
日頃文章を書く機会が多い方は感じたことがあるかも知れませんが、実は、「です・ます調」と「だ・である調」では、後者の方が断然書き易く、文章も歯切れよくスムーズに繋がっていくように思います。前者、丁寧な言葉遣いでは、どうしても冗長になり、リズムも取りにくく、書くのに時間がかかります(単に字数の問題ではない)。
ですが、決定的なのは、書いている私本人が専門家でも何でもない一般人であることです。「だ・である調」では、どうしても断定的・上から目線的・偉そう的・物知り的になってしまい、これは避けたいところです。選択の余地はないようなものですが、何100回と投稿していると分かる事があります――慣れです。慣れて「です・ます調」で書くことが全く苦ではなくなってくるのです――。
〔註〕本文中に箇条書きで内容を整理するような場合は、その箇条書きの
部分だけ「だ・である調」にすることがあります。
(8)言葉遣い
当たり前な事ですが、日本語には正負・是非・好悪・プラス‐マイナスどちらともとれる言葉がたくさんあります。自分の意図したのと全く違う正反対の意味に取られてしまわないかなど、疑り深く読み返し、推敲するのは必須の作業と言えます。
また、例えば、震災の時に津波を連想させる表現、潮流・流れといった譬えは控える、といった配慮もしたいものです。
(9)音読する
自分で書いた文章の出来を確認するのは、犯人を知っている推理小説家には自分の推理小説の意外性が、推測はできても、実感はできないような感覚かも知れません(妙な譬えですいません)。
一つ有効なメソッドがあるとすれば、それは、音読してみることではないでしょうか?自分で書いた文章を噛んでしまうようでは、直した方がいいというシグナルです。
(10)しばらく寝かせてから投稿する
いい記事を見付けて、自分なりのオピニオンもある時は、言ってみればノリノリで執筆している状態です。そういう時は、得てして勇み足・書きすぎ・論理の飛躍・事実誤認などのリスクにはまっている、というのが私の経験則です。
最初の頃は、記事を書いてすぐ投稿、という執筆スタイルでしたが、しばらく寝かせてから投稿する事には様々なメリットがあります――
▶しばらく寝かせてから投稿するメリット
(11)コンテンツと営業
SNSで頑張っている人は、日夜、どうやってフォロワーを増やそうか、ページビュー数を増やそうか、スキを増やそうか奮闘しているかも知れません。わたしの拙い経験では、その為には、①コンテンツ自体の質、そして、②営業活動が必要です……
ただ、営業活動と言っても、私に思い付く事は、せいぜい、①フォロー返しを期待してフォローする、②自分をアピールするためにいろんな投稿にスキする、③タグをたくさん付けて露出を高める位で、いかんせん素人の一般人では限界があります。ツイッターもインスタグラムもあと一歩のところでフォロワー500に届かず⇨やがて足踏み状態となり⇨投稿数激減⇨フォロワーの数が漸減していく、という道筋を辿りました。
そこで、このnoteでは、ほぼ営業活動なしで(やってもあまり効果がない)、ひたすら連続投稿を重ねる、コンテンツの質だけで勝負する戦略です。
――唯一やっていると言えるかも知れないのが、投稿のタイトルの頭に《連続投稿〇〇〇日目》と謳っていることです。毎日投稿する度に、「本当にすごい」とか「ここまでやれば自慢できますよ」・「なんと!」などポップアップが出てくるので(多少文言は違っていたかも知れません)、思い付きました。
――ちなみに、「COMEMO」や日経電子版のトップページに掲載されるとどの位ビュー数が伸びると思われますか?
――あくまで私の場合ですが、普段、私のnote(武田敦のnote)全体で一日当たり100弱から200弱といったビュー数が、数百~500超へと跳ね上がります。日経新聞は偉大です。
(12)カタカナ語の使い方
昨今のコロナ禍でも、ソーシャルディスタンスやロックダウンなどカタカナ語が盛んに登場して賛否両論がありました。確かに、いろんな方の投稿、記事を見ていると、横文字がやたらと頻出して、残念ながら意味不明になっていることが(たまに)あります。
例えば、これは、あくまで私の創作ですが――
内容に間違いがないように書いたつもりですが、これでは、チンプンカンプンで伝わりません。多くの読者に伝える為には――
これでもまだ分かりにくいですが(笑)、カタカナ語の活用には節度が必要な事は明らかです。
ただし、その一方で、日本語訳ではうまく表現できていない概念、インパクトに欠けるようなケースも多々あるのが現実です。そこで、私の投稿では、カタカナ語には比較的オープンで、使用頻度は高いかも知れません。
(13)造語
日々日経電子版を読んでいると、新しいサービス、新しい現象などが次々と目に飛び込んできます。そして、そのような概念を表現する『言葉』がまだ生まれていないのです(そういうケースは、想像以上に多いです。ハッシュタグ#を付けようとすると、全然使われてない、ほとんど使われてないので分かります。逆に言うと、例外もありますが、#が数件しか付いてないコトについて書く、という事は、すごく新しいコトを書いている、という事です)。
そういう場合にどうするか――
わたしの場合は、素人の特権で、自分で『造語』してしまいます(必ず「これは造語です」とか「例えば〇〇とでも呼ぶべきもの」などの断りを入れます)。最近では、『STaaS(ステーション・アズ・ア・サービス)』、『アバター通販』、『持続可能なSNS』などがあります。
万が一にも、自分の『造語』が一般に流布するようなことがあったら楽しいじゃないですか!
(14)ダイジェストではなくオピニオン
投稿する喜びの一つは、自分のオピニオン(意見)の発見にあります。ただその内容を要約する(ダイジェスト)だけで終わってしまいそうな記事は、最初から選びません。
(15)投稿のタイミング(出来ていない事)
読者にとっては、いつも同じ時間に投稿された方がいいに決まっています。自分が逆の立場ならそう思います。
しかし、実際にはピンポイントで定時に投稿するのはなかなか難しく、私の実力では、そこにこだわると記事の質に悪影響が出る懸念すらあります。
そこで、内心忸怩たるものはありますが、毎日投稿ということでお許しいただいて、定時投稿は現時点では考えていません。
【3】書くコトをイメージするという作業(イメージ化)
改めて整理してみると、思いのほか注意しなければならない点がたくさんありました。本章では、その上で、実際に記事を書く、投稿するという作業の『本丸』、書く内容をどうやってイメージするのか、書く内容のイメージをどうやって固めていくのか、『イメージ化』という事について述べたいと思います。
(1)記事(テーマ)を選ぶ~『花』を求めて~
私がnoteでやっている事は、日々日経電子版を読み込む中から、①気になった記事を選んで、②その内容を整理=エッセンスを抽出して、③そこから自分なりのオピニオンを組み立ててみよう、という作業です。
そのことを、より一般的に表現するなら、①まず書く対象(テーマ)を選んで、②その対象に関する情報(特徴・特性・課題・問題点・ポテンシャルなど)を整理し、③そこから自分なりの見解、オピニオンを導き出そうとするものです。この一連の流れが『イメージ化』、書くコトをイメージする作業であり、そのプロセスを文章化するのが書く事、書くという作業、執筆という作業な訳です。
これを自然界の営みに譬えるなら、ミツバチというアーティストが、①花を求めて、②蜜を集め、③蜂蜜という名の栄養のアートを作り出す作業、とでも言えるかも知れません。
▶執筆者とミツバチ
『イメージ化』の第1ステップであるテーマ選びは、最終的なオピニオンの質を決める、あるいは、もしかしたらオピニオンを導き出せないかも知れない、重要な分岐点です。どうやって、投稿の出発点となる記事を、テーマを、『花』を探すのか?
私の場合は、まず、毎朝7時に、準備作業として、情報収集もかねて、日経電子版の『速報』のページに目を通していきます。その段階では、記事のタイトルだけを見て、気になる記事を開き(内容は読まずに)、Myニュース機能を使ってどんどん保存を掛けていきます(残念ながら、一々記事を開かないと保存が掛けられない、保存ボタンが出てこない)。――ミツバチに譬えるなら、野原を飛び回って目ぼしい花に当たりを付けているような感じです。
……話が脱線しますが、この点からだけでも、タイトルの重要性、タイトルをどのように言語化するか(のちの章で詳述)、という事の重要性が分かります。タイトルは文字通り花であり、花がパッとしないと、蜜(情報)もイマイチだと判断している訳で、内容が素晴らしくてもタイトルが悪いと誰もやってこないのです。
このタイトルの選別をどのような判断基準で行うのか、本人の志向・興味・見立て・鑑識眼・直感次第と言っては身も蓋もありませんが、直感で素直に選ぶことの優位性を認めた上で、あえてそのポイントを整理してみると――
▶タイトル(テーマ・記事)選別の基準
(2)情報を整理する~『蜜』を集める~
記事を選別し、Myニュースへの保存が終わったら(=目ぼしい花の在りかを確かめたら)、いよいよ、『イメージ化』の第2ステップ、一つ一つ記事を読み込んで、その内容を確認する(=蜜を味見する)、情報整理のステップです。
この段階で、①記事の内容を吟味し、場合によっては箇条書きに抜き出してみて、そこに、②自分が既に知っている情報のリソース、そして、③記事に触発されて改めて調べた情報を掛け合わせてみて、何か自分なりの意見・見解・オピニオンを導き出せそうかその感触を確かめます。
――オピニオンが浮かびそうであれば、味見は終わりにして本腰を入れます。
――逆に、インスピレーションが湧かなければ、この記事を出発点に投稿するのは諦めます。
▶オピニオンが生まれるか?
ここで重要な点、注意しなくてはならない点は、オピニオンは情報の足し算ではなく、掛け算から生まれるので、選んだ記事、選んだ題材そのものから得られた情報の量が例えたった一つであっても、上記の既知情報や調査情報と掛け合わせることで大きな化学反応が起き、全く新しい気付き、オピニオンが得られる場合がある、という事です。――つまり、選んだ記事の長短、長い短いは、そこから得られるオピニオンの質とは、全く相関関係がありません。記事の長い短いはあまり関係なく、400字程度の短信であっても、大きな知見を得られる場合があるのです。
(3)オピニオンを導き出す~『蜂蜜』を作る~
記事をはじめとして、自分が感銘を受けた様々なコンテンツから得た情報に、自分が既に持っていた情報リソース、そして、コンテンツに触発されて改めて調べてみた情報を掛け合わせる作業は、様々な情報を結合させて『新結合』を生み出す、文字通りナレッジ(知識)のイノベーションと言えるかも知れません。
そのような『イメージ化』の第3ステップ、ナレッジのイノベーション、『蜂蜜』を作り出す(蜜をブレンドする)にはどうすればいいのでしょうか?どのような化学反応の方程式があるのでしょうか?私の経験からは、概ね次のような方程式がありそうです――
▶オピニオンの方程式
①『仰観の方程式』・・・記事のテーマを、それを包含するもう一回り大きな
テーマの中に位置付けて見ることで、オピニオンを
得る。(例:コロナ禍で広がる外出自粛の中、分身
ロボで買物するというテーマを、アフターコロナの
ニューノーマルたり得る「ネットでもリアルでもない
アバターな買物=アバター通販」として拡大的に
解釈する。)
②『俯瞰の方程式』・・・『仰観の方程式』とは逆に、記事のテーマを
細分化・深掘りすることで、その様々な
ポテンシャルを発見する。(例:コロナ禍に
よる外出自粛の中盛り上がりを見せるライブ
コマースを、リアル店舗で積極的に導入する
ことの可能性。)
③『搦め手の方程式』・・・記事のテーマを、記事にはない視点で読み解く
ことで、オピニオンを得る。(例:サブスク
とは何か、記事ではあまり触れられていない
『所有』というものの本質と対比することで
読み解いていく。)
④『変身(メタモルフォーゼ)の方程式』・・・記事のテーマを、全く
別の視点で捉え直し、そこに新しいテーマを
浮かび上がらせる。(例:新たな市場を切り開く
商品開発というテーマを、『当たり前』を否定する
ことで生まれるイノベーションがコモディティ化を
回避する、と捉え直す。)
⑤『予測の方程式』・・・記事のテーマから類推して予測される未来を
自分なりに考えてみる。(例:飲食店による酒類の
テークアウト販売を考察することで、コロナ禍
による時限措置の数々が、アフターコロナの
ニューノーマルとしてその存続が叫ばれるように
なるのではないか、と問題提起。)
⑥『転用の方程式』・・・記事のテーマを、全く別の分野に転用する。
(例:醤油は奥深く色々な種類があるという
テーマを、『汎用』と『専用』のせめぎあい
が発明を生む、というテーマに転用。)
改めて整理してみて、記事などの素材から自分のオピニオンを紡ぎ出す方程式には実に様々なものがあることが再認識できました(子細に見ればもっとあるかも知れない)。出発点となるテーマを見付け、情報を整理して、オピニオンを導き出す、自分の書きたいものをイメージ化する作業は奥深く、そのメソッドには限りがなさそうです。
文脈を読み解き、情報の繋がりと関連性を発見して、その情報の化学反応を通してオピニオンを導き出す作業は、モノゴトの全体像を把握しながらモノゴトを構成する要素の相互作用を探求するシステム思考(システムシンキング)にも通じるものがあるかも知れません。
……だとすれば、私のような専門家ではない素人、一般の読者が、様々な意味での学問的・学会的硬直性からフリーな感性で、自分ではそうと気付かず意識もせずに突拍子もない情報と情報の結合をしてしまう事には、一定のポテンシャルがある……のかも……
▶『イメージ化』のメソッド
【4】投稿のフォーマット
書くコトのイメージが固まったら、次は、そのイメージの文章化です。その際有効なのが、書き方のレイアウト、フォーマットがしっかりと確立されている事です。
記事を書くたびに、その内容によって、直感的に表現法、レイアウトが微修正されることはあっても、連続的に投稿される記事、コラムのようなものが、その都度全く違ったレイアウトでは(もちろん、それでも構わないのですが)、譬えて言えば、毎日のように髪型・メイクがコロコロと変わるようなもので、ブランドイメージが定まりません。
決まったフォーマットで投稿する、記事を書く事には様々なメリットがあると思います――
▶投稿フォーマットのメリット
私の場合は、次のようなフォーマットで投稿しています(私の投稿をどれか一つ別タブで開いて参照すると分かり易いかも知れません。ただし、記事によってバリエーションがあります)――
▶武田敦noteの投稿フォーマット
このフォーマットは、書きたいコトをイメージ化する作業、そのプロセスをそのまま文章化できるレイアウトになっており、これによって、頭の中でイメージを固める作業と書く作業がシームレスに繋がり、きわめて効率的です。
このようなフォーマットは、書き続ける中から、書く人それぞれのフォーマットが自然と編み出されていくもので、最初から存在している訳ではありません。書く人それぞれの、書きたいことをイメージ化するプロセス、そして、それを文章化するプロセスの相互作用の中から生まれてくるものだと思います。
【5】タイトルの付け方
前述のように、タイトルはきわめて重要です。特に有名人・著名人ではない一般人の投稿の場合は、執筆者の名前では集客できません。読む前にコンテンツの良し悪しを予測するのに使える指標は、タイトルしかないのです。
それでは、そもそも、タイトルで表現される要素とは何でしょうか?――
▶タイトルで表現される要素
タイトルで表現される要素は他にもまだまだありそうですが、これらの要素を、別の視点、その機能で分類すると、基本的には3つに絞り込めそうです――
▶タイトルの3大機能
私の場合は、もちろんケースバイケースですが、『タイトルの3大機能』を全て使う事が多いです――
▶武田敦noteの標準的なタイトル構造
少し欲張りな構造かも知れませんが、抽象的な言説と具体的な言説で表現できるものを共に取り込んで、①内容が分かるように、そして、②インパクトがあるように、というのが基本的な戦術です。
ところで、これは蛇足ですが、世の中には『タイトル付け』名人と言われる人々が存在します。そんな中で、私の好きな作家を一人だけ挙げるとすれば、それは、松本清張です。――『ゼロの焦点』・『Dの複合』・『時間の習俗』……まだまだあります。小説のあらすじはすぐには思い出せなくても、そのタイトルは記憶に刻み付けられて忘れられません。
【6】執筆スタイル
500日も連続投稿していると、自然と執筆習慣が確立されてくるものです――
▶私の執筆スタイル(一週間サイクル)
忙しい中、どこかのタイミングでまとまった時間を作る事がポイントだと思います。毎日1本下書き⇨投稿という執筆スタイルは、私にはきつかったです。ただし、旬な記事を最速でカバーできない、数日遅れとなるリスクは意識しておいた方が良いかも知れません。
次に、1本の記事が投稿されるまでのサイクルについては、最初の頃と最近では、上記のような記事を寝かせるか寝かせないかといった違いの他に、決定的な違いとして、紙の下書きがほぼなくなった、というのがあります。何100回も投稿作業を反復するうちに、書きたいコトのイメージ化が頭の中だけで完結できるようになったのです。
▶私の執筆スタイル(一投稿サイクル)
習慣化による習熟化によってペーパレス化できたことで、大幅な時短が実現できたのは、とても大きかったです。お国柄の譬えに、「ドイツ人は考えてから行動する」とか「イギリス人は考えながら行動する」などというのがありますが、紙の下書きがなくなり、言わばイギリス流の執筆スタイルになった事、書きたいコトのイメージを固めながら同時進行でアジャイルに書けるようになった事は、一つの大きな成果でした。
【7】書き続けるコトで見えてきた『書き続ける効果』
さて、このようにして500日連続投稿を成し遂げてきたのは、もちろん、書くコトが好き、書くという作業が好きだ、という事がベースにあったからだと思います。人によって、書くコトが好き、しゃべる方が得意、どっちも苦手で行動あるのみ、と個人差、個性があるのであって、一概には言えないし、私自身、まだまだ未熟者ですが、日々書き続ける中から、500日の積み上げによる様々な効果、『書き続ける効果』がおぼろげに見えてきたように思います――
(1)文章を書き慣れる
文章を書くコトの習慣化は、やがて、自分らしい、自分流の文章術へと繋がり、習熟度が増していくと考えられます。
(2)文章でプレゼンするというコトが見えてくる
文章を書くのは、もちろん、相手に、読む人に伝える為です。書き続けるうちに、日々のビュー数・スキ数を確認し続けるうちに、自然とどうすればより伝わるか、プレゼン効果があるか試行錯誤するようになるはずです。
(3)書きたいコト、書くべきコトを(頭の中で)イメージ化できる
何かモノゴトが起き、また、様々なコンテンツに接する中で、それに自分ゴトで対峙する習慣、あれこれ情報を集め加工する習慣が、書きたいコトのイメージ化へと繋がっていくと考えられます。
(4)自分のオピニオンが形成される
書くコト、書き続けるコトの最大の効果は、何と言っても、そこに自分の見解・意見・オピニオンが形成されるようになるコトではないでしょうか。
(5)自己表現・自己主張のツールとなる
自分のオピニオンがある、という事は、書くコトが、自己表現・自己主張のツールとして貴重なスキルとなったという事です。
(6)自分の文体ができる
長く書き続けていれば、自ずと自分の流儀、自分の文体が見えてきます。自分のスタイルを確立できるというのは、とても大きなコトだと思います。
(7)ナレッジが深く広くなる
何かを書こうとするには、そこで使われる言葉の意味、書こうとしている概念を正確に知る必要があります。そうしないと、その言葉・概念を使いこなせません。したがって、書くコトは、知識、ナレッジを深め、広めることとイコールなのです。書くコトすなわち学ぶコト、です。
(8)書き続けなければ、読み続けてももらえない
少しでも多くの人に読み続けてもらうには、書き続けるコトが必須条件だと思います。
(9)頭の中にキーワードマップができる~知識の引き出しはもう古い~
AIを人間に譬えることはあっても、逆に、人間をAIに譬えるというのも妙なものですが、毎日毎日何百日と投稿し続ける作業は、AIの機械学習そのものです。書くという作業は、単に情報の断片の収集では成立せず、情報の繋がり=タグ付けが伴うのです。書き続けるコトで、AIが情報を飲み込む学習を通してその精度を上げていくように、ナレッジの精度が上がっていくのだと思います。
――つまり、頭の中に、知識の引き出しなどではなく、それ以上の、複雑に絡み合ったワードマップというかけがえのないリソースが形成されるのです。
こうして、書き続けるコトで様々な効果を実感できるようになった時、人はどんな力を、スキルを体得できるのでしょうか?願望も込めて整理するなら、次のようなフローが描けそうです――
▶書くコトを通して身に付けたいスキル
読み書きと言うと『認知能力(数値で測れる学力など)』と結び付けられがちかも知れませんが、『事務的な読み書き』などではなく、自発的に、自分ゴトとして行う読み書き、『読書』や『執筆』には、レジリエンス・忍耐力(粘り強さ・やり抜く力)・計画力(イメージ化)・自制力(過度な批判・攻撃の抑制、など)・創造力(オピニオン化)・コミュニケーション力(インフォメーション化)など、様々な『非認知能力(数値化できない個人の特性)』を涵養する、というポテンシャルがありそうです。
noteへの連続投稿500日を通して、徐々に自分なりの投稿のメソッドが形作られ、そのプロセスを通して、様々な気付きを得られたこと、日経電子版を通して学んだことはもとより、書き続けるコトそのものから学んだことは、かけがえのない体験であったように思います。
これからは、日経電子版の記事に見い出したテーマから出発して、より遠くまで『ポジティブな思考(イメージ)』という名の青い鳥(希望)を羽ばたかせ、より自分らしいオピニオンに辿り着けるよう精進したいと考えています。
連続で投稿できるかどうかは別として、次の500日が経過した時、そこにはどんな気付きが待っているのか、今から楽しみでなりません。
《読んでいただき、ありがとうございました!》
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