Yuki Arai

しかし、自己とは何であるか?自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係であ…

Yuki Arai

しかし、自己とは何であるか?自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。ーキルケゴール『死に至る病』

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ミラボー橋、橋と扉、あるいは恋について

1. はじめに 先日読んだ岩波書店から発刊されている『思想』2020年9月号に掲載されている大髙保二郎氏の「ピカソとアポリネールーー奇妙な友愛の果てに」を読んで、恥ずかしながら初めてアポリネールという詩人を僕は知った。そして彼の代表作とも言える「ミラボー橋」を読んだ。今回は、その作者アポリネールについて、あるいはこの詩について、考えたことを書こうと思う。 2. アポリネール、ある不幸な詩人 ギヨーム=アポリネールは1880年に生まれーだから今年で生誕140周年であるがー、彼

    • クリストファー・ノーラン『オッペンハイマー』、あるいは文学と政治の問題について

       最後にまとまった文章を書いてから、既に1年以上が経つ。僕はかつての僕の文体を、それなりにあったかもしれない明晰さを、忘却し続けている。本を読む時間は減り、考える時間はなく、ただただ毎日を”こなしている”。  しかし、それは今は置いておこう。僕といえばここ最近、毎週のように映画館へ行き、週末の度に向き合わなければならない孤独を映画という数時間の物語で隠蔽している。そして今日もノーランの最新作、『オッペンハイマー』を観てきた。(実は先週も観たので、これで2回目になる。)そこで

      • 自分のみじめさを持って帰るー深田晃司『LOVE LIFE』

          ボードゲームの中で、オセロほど悲しいものはない。なぜならオセロは、やり直しが効かないからだ。一度打った石は、相手が挟んで色が変わらない限り、ずっとそのまま放置されている。そしてさらにーこれは僕がオセロが弱いことが原因かもしれないがー負けている時のオセロほど惨めなものはない。目に見えてはっきりと、盤面が一色に染まっていく。しかし、終盤になると概ね大逆転も起きず、コールドもなく、ただただ、全てのマスを埋めるまで自分が負けることを宣告され続けるのだ。  でも、オセロはまだいい

        • 反復と構造の中の自由ー大江健三郎『個人的な体験』

          再び備忘録としてー。  4月になった。新生活だ。僕は毎日、自宅から研修を受け続けている、そんな少々拍子抜けする社会人生活が始まった。慣れない文体と意味を駆使しながら毎日書く日報は、既に、僕にかつての文体と意味を忘れさせるには実効的であるらしい。しかし、僕は僕の文体や意味を出来るだけ忘れたくない。内的な自由を守りつつ社会と仲良くしていくつもりである。だから僕は、今日も、いずれ地上に落ちていくことが決定している紙飛行機を、それでもなお遠くへ飛ばすために惨めにも微調整し続ける少年

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        ミラボー橋、橋と扉、あるいは恋について

        • クリストファー・ノーラン『オッペンハイマー』、あるいは文学と政治の問題について

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          二つの『ドライブ・マイ・カー』、二つの他者性について

          備忘録としてー.  車を運転する、とは何だ?他でもない車を。僕は別に特別運転が好きなわけではないし、それにしなくてもいいなら出来るだけしたくないほうだ。第一、やることが多すぎる。出発地点から目的地まで、目視で様々な箇所をーそれは(何個もある)ミラーから、道路、標識、歩行者ー確認し続けなけらばならないし、その道路や交通状況を把握して、スピードを早めたり緩めたりしなければならない。それから、恐らく誰かと同乗であれば、きっと、その気まずい沈黙を破るため会話にも集中しなければならな

          二つの『ドライブ・マイ・カー』、二つの他者性について

          「明治の精神」とはなんだったのかー夏目漱石『こころ』を読んでー

          1. はじめに 夏目漱石『こころ』は、彼の代表作でもあり、また、押し並べて高校生の際に読んでいる場合が多いので、国民の大半が読んでいる珍しい文学作品なのではないだろうか。しかし、僕自身、これといって高校生の頃に『こころ』を読んで、「わかった」気になったわけではない。当時の僕は、一つの罪を背負って生きる先生が、あまりにも可哀想であったことを同情している。人間のどうしようもないエゴイズムと、そこに絡まる恋路を、僕は自身の人生を振り返り、先生に同情していたのだ。例えば、17歳のの僕

          「明治の精神」とはなんだったのかー夏目漱石『こころ』を読んでー

          僕はメルカリで何を買っているのか、あるいはメルカリの哲学

           僕はもう、かれこれ200冊以上メルカリで本を買っている。メルカリはー出版業界に喜ばしくないのは知っているがー大変安価で古本が買える。絶版になっていてアマゾンでは狂気かと思われるほど値上げされている本も結構お手頃に購入できたりするので、結構ヘビーメルカリユーザーであると自覚している。  ところで、メルカリでは、自分の欲しい商品を出品している出品者の、他の商品も見ることができる。僕は案外これが楽しくて、この出品者は他にどんなものを売っているのかチェックしてしまう。そして、そこ

          僕はメルカリで何を買っているのか、あるいはメルカリの哲学

          セカイ系の亡霊たち ―連合赤軍・『ノルウェイの森』・新世紀エヴァンゲリオン―

          1. はじめに  <現代>とは何か。本論では、それを、「この世界に内在している<わたし>と<わたし>以前の<歴史>の接続を感じられる期間のこと」である、と定義したい。その上で、我々は<現代>の起源をどこに設定できるだろうか。はじめに本論の結論を早急に述べれば、それは1970年代にある、と答えることになるだろう。我々は、後に詳細に検討するが、1970年代〜1980年代に生じた二つの社会的事象(連合赤軍―村上春樹)の形式が、奇しくも1995年〜2021年現在(「新世紀エヴァンゲリ

          セカイ系の亡霊たち ―連合赤軍・『ノルウェイの森』・新世紀エヴァンゲリオン―

          「まなざすこと」と「まなざされること」ー立川ホテル殺傷事件についてー

          1. はじめに 大変痛ましいニュースが飛び込んできた。東京都立川市のホテルで男女が刺されて殺傷されたのだ。殺傷したのは19歳の少年で、殺傷されたのは風俗店の店員の女性と同じ店で働く男性であった。女性は死亡し、男性は重傷を負ったという。少年と女性との間には全く面識がなく、少年は「人を殺す動画を見て刺激を受けた」「無理心中しようと思い、その様子を撮影しようとした」と供述している。  と、ここまで聞けばそれは、いかにも凶悪で残忍な少年が無作為に選んだ人と心中ーあるいは殺人ーしたよ

          「まなざすこと」と「まなざされること」ー立川ホテル殺傷事件についてー

          『千と千尋の神隠し』試論ー欲望・アイデンティティ・資本主義ー

          1. はじめに  2001年に公開され、記録的な大ヒット作品となった宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』を多くの人は観たことがあるのではないか。それでは一体この映画は何を我々に伝えようとしているのだろうか、という問いについての答え(もちろん作品であるため解釈は人それぞれではあるが)を明快に答えられる人はそう多くないのではないか。それ程、この作品は難解である。その難解さの理由の一つにテーマの多様性が挙げられる。例えば湯屋の客人である神からは日本人の宗教観が、風呂屋に来た腐れ神風の名

          『千と千尋の神隠し』試論ー欲望・アイデンティティ・資本主義ー

          <存在>論、あるいはbe動詞について

          1. はじめに 僕が好んで読んでいるnoter(こう言うのか...?)の方が久しぶりに更新された。  とむさんだ。とむさんの書く文章や内容は、非常に面白く、僕は勝手にチェックしていて、最近更新が止まっていることを悲しんでいた。(ストーカーチックだ。)恐らく僕ととむさんは非常に興味関心が似ていると思われるので、是非一度直接お会いしてお話したいと思っているが(ストーカーチックだ。)、とにかく更新されたのだ。いや、興味関心だけではない。とむさんはどうやら理系の院生で、僕は文系の学

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          ”ランダムな線”としての「noteを読み合う会」

          1. はじめに 昨日開催された、3月24日に行われた「noteを読み合う会」に参加してきた。これは、各人が持ち寄ったnoteの記事を、zoomを用いて実際にその場で出会った人に読んでもらい、感想を伝え合う会だ。  今回は、この会の感想と、この会の持つ意義を語ろうと思う。 2. 参加メンバーの皆さん、あるいは記事の感想 さて、今回は参加者が50人ほどの会で、5人程のブレイクアウトルームに分かれ、1人あたり10分間ーこれは皆さんの記事をきちんと咀嚼するには大変短い時間だがーで

          ”ランダムな線”としての「noteを読み合う会」

          『推し、燃ゆ』と現代日本における宗教の不在、生きづらさについて

          1. はじめに 先日、昨今話題になっている第146回芥川賞受賞作品である宇佐見りん氏の『推し、燃ゆ』を読んだ。最近、『花束みたいな恋をした』についての記事を書いたが、思ったよりも伸び(?)、多くの人に見てもらったので、もはや自分の書きたいことではなく世間の流れに迎合することにした僕は、今回は『推し、燃ゆ』について書こうと思う。(嘘です。とても面白かったので僕が書きたくて書きます。笑)  僕がこの小説を読んで思ったことは、正しくこの小説の帯に記載されていたロシア文学者の亀山郁

          『推し、燃ゆ』と現代日本における宗教の不在、生きづらさについて

          「抑圧された日常」の回帰 ―恋愛リアリティ・ショー、あるいはソアリン:ファンタスティック・フライトについて―

          1. はじめに 近年、非常に奇妙な形式の(と筆者は思っている)テレビ番組が、人気を博している。その形式の名は「リアリティー・ショー」である。これはまず、その名からして奇妙だ。リアリティー(=現実)は、本来はショー(=見せるもの)とは相入れない概念だ。リアリティーは、常日頃より、我々の生活と共にあるはずだからである。しかし、まるで生物学で異質同体を指すキメラのように、「リアリティー・ショー」は誕生し、そしてそれは人口に膾炙している。  例えば、我々は、「リアリティー・ショー」

          「抑圧された日常」の回帰 ―恋愛リアリティ・ショー、あるいはソアリン:ファンタスティック・フライトについて―

          『花束みたいな恋をした』について語るときに僕の語ること

          1. はじめに 正直言って、本当に僕はやることがたくさんある。こんなことをしている場合ではない。が、良い映画を観たのだから感想を書かなくてはならないだろう。その映画は目下話題になっている 土井裕泰監督の『花束みたいな恋をした』だ。この映画は、『(500)日のサマー』や、少し古いがオードリー・ヘップバーン主演の『いつも2人で』のように、恋の初めから終わりまでを描いたものの日本版だ。劇中様々な固有名が登場し、2015〜2020年のサブカル事情を復習した気持ちになれる作品でもあるが

          『花束みたいな恋をした』について語るときに僕の語ること

          老子とビートルズと私

          1. はじめに  先日、今年の8月に出版された比較文学者の四方田犬彦氏の新著、『愚行の賦』を読んだ。これは、フロベールやドストエフスキー、ニーチェ、谷崎潤一郎の著作を通して、通時的・共時的に蔓延している「愚行」について考察を試みたものだ。  この本の個別具体的な考察はまた別の機会にしようと思うが、この本文の中で引用されていた『老子』の中の一節にとても胸打たれた。そこで、今回はそれを紹介すると共に、さらにそれについて考察しようと思う。 2. 老子と『老子』について 老子とは

          老子とビートルズと私