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”ランダムな線”としての「noteを読み合う会」

1. はじめに

 昨日開催された、3月24日に行われた「noteを読み合う会」に参加してきた。これは、各人が持ち寄ったnoteの記事を、zoomを用いて実際にその場で出会った人に読んでもらい、感想を伝え合う会だ。

 今回は、この会の感想と、この会の持つ意義を語ろうと思う。

2. 参加メンバーの皆さん、あるいは記事の感想

 さて、今回は参加者が50人ほどの会で、5人程のブレイクアウトルームに分かれ、1人あたり10分間ーこれは皆さんの記事をきちんと咀嚼するには大変短い時間だがーで話し合う。僕は、折角ということで、僕のデビュー記事で「恋」や「人を愛すること」についての哲学的試作を読んでもらった。皆さんが自分の記事を読んでいる間の無言の時間。大変緊張したし、やはり自分の書いているものを全く知らない誰かがいま・ここで読んでいるという感覚は大変違和感があるのと同時に楽しいものだった。

 そして今回は、折角なので、ご一緒になった皆さんの記事も紹介したい。そして、会では伝えきれなかった感想も自分なりに書こうと思う。

 まずは、soba ringoさん。

 soba ringoさんが持ってきてくれた記事は、自身の「名前」、そう、この「そばりんご」という覚えやすい名前についての記事だ。僕はこれを読んでこう感じた。自分の「名前」とはなんだろう。人は、人に対して名前を付ける。付ける側は能動的で、付けられた側は非常に受動的だ。だからこそ、その「名前」には時に名前(文字・音)以上の「想い」が乗ることがあり、「名前」以上の、例えば彼女で言えば「soba ringo」という音以上の意味を持つことがある。名前を付けた人は今はいないけど、名前が、その人との接点になっている、という点では全ての人におすすめしたい記事だ。また、文章のリズムも大変素敵で、フレッシュさに満ちている。

 次は、大枝岳さん。

 小説を持ってきて頂いた。僕はこれを読んで重松清を思い出さずにはいられなかった。自分が思うよりも数倍上手くいかない自分の人生、それでも生きていくんだ、という小さな応援のメッセージが大枝さんの作品にはある気がした。また、作品の中でのメタフォリカルなキーコンテンツが「オートレストラン」になっているというのも大変見事だと感じる。僕も本当に何度かだけ、オートレストランに行ったこともあるし、あるいはスキー場などであの「ご飯が出てくる自販機」を使用したことがあるが、とても古びているのに、だけど、どこか懐かしいものだ。それが父の姿に重なる。何度も咀嚼したいような、そんな小説だし、一体作品をどのように作られているのか知りたくなった。

 続いてはドンハマ★さん。

 ドンハマ★さんは声がカッコ良すぎた。そして何をされているかというと、その素敵な声を生かしつつ、全ての人たちに「絵本」を届けられている方だ。しかもその作戦は戦略的だ。まず、人は三回絵本に出会うのだという。しかし、ドンハマ★さんが本当にやりたいのは、その三回出会う前までの空白期間すらも絵本で埋めようと活動されている。僕も絵本は結構好きなのだが、僕は本当に素敵な「絵本」には2種類の意味があると思っていて、まず一つは「その時読んでもらった時の面白さ」だ。これはどの絵本も持つ。しかし、本当に素敵な絵本は10年後、20年後に「あ、あの時読んだ絵本はこういうことだったのか」という感覚に陥ることがある。時間差でやってくる「面白さ」、それを僕は大切にしたいし、その意味でドンハマ★さんの行われている活動にこれからも着目したい。

 最後に山口篤志さん。

 端的にいうと、「メールは短い方が良い!!!」だ。確かに僕は普段、どうしてもメールを返すのが面倒臭くなったり、後で返そう、と思ってそのまま放置していくことが多いので、大変耳が痛い。僕が「メールは短い方が良い!!!」という記事の感想を長く書くとそれはそれで自己矛盾に陥りそうだ。山口篤志さんの記事は、全て工夫されていて、相手にどうすれば読んでもらえるか、ということを1から10まで考えてnoteを執筆されていると感じた。noteを書いていて文章を書くことにハマった、と仰っていたが、なるほど、ハマった人の「熱量」を始めて顔を見ながら感じた機会であった。また山口さんからは「人柄を伝えるために自己紹介記事を書いてみたら」というアドバイスをもらったので、今後アドバイスに忠実に自己紹介記事を書いてみようと思う。

3. ”ランダムな線”としての「noteを読み合う会」

 そして、僕がこの会に参加して思ったのは、これこそが正に世界を広げてくれ得るものだ、ということだ。どういうことか、僕は、昨今発達したテクノロジーは、全てアルゴリズムの中に我々を閉じ込める、ということを例えば以下の記事で書いた。

 要旨を簡素に述べると、以下のようなことだ。例えば、YouTubeで何か、あるいはAmazonで、あるいはもちろんこのnoteでもいいが、コンテンツを享受したとしよう。すると、以降YouTubeやAmazonやnoteは、「あなたへのおすすめはこれだよ」と言って、おすすめのコンテンツを教えてくれる。そして僕は確かにこれは「僕におすすめだ」と感じ、そのコンテンツを享受する。するとさらにアルゴリズムは「じゃあこれもおすすめかな」と言って、...このような世界では永遠に「外の世界」に出会わない。すると永遠に世界が「僕の好き(っぽいもの)」ばかりで、世界が広がらないのだ。そして僕はここに、ネット社会の限界を見ているのと同時に、また昨今の諸々の分野での分断の原因を見ている。全てが「島宇宙化」され、例えば電車で座った隣の人が何が好きで何に苦しんでいるのかということに大凡想像もつかないような社会では、分断はより深刻になるだろう。東浩紀は、このような事態を避けるため、まずは自身の「検索ワード」を変えて世界を広げるために「旅に出よ」という。もちろん、僕は旅行は大好きで、確かに旅は自分の世界だけでなく、ネットの世界も変えてくれることは大変納得できるが、昨今は時勢柄、旅にもなかなか行くことができない。

 だからこその「noteを読む会」なのだ。本当に正直言って、僕は上記の4名の記事は、恐らく自ら検索して出会うことは、僕の興味関心から見ると、なかったであろうし、万が一仮にその記事を見かけても、読まなかったと思う。(そして恐らくそれは逆も同じで、僕の記事も4名の方々は読むことがなかっただろう。)

 もう少し議論をクリアにするために、アメリカの社会学者であるダンカン・ワッツが提唱した「スモールワールド・ネットワーク」を紹介したい。

 従来、我々の社会的・自然的ネットワーク形態は完全に規則的か、もしくは完全にランダムであるとされてきた。しかし、現実のネットワークはそうではない、とワッツは言う。そうではなく、完全に規則的と完全にランダムのちょうど中間のネットワークの単純なモデルなのではないか、と。そしてそれは、規則的なネットワークを「つなぎかえる(rewire)」ことによりランダムさを増加させるという方法によっているものだ。例えば下図を見て欲しい。

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 左のように、n個の頂点にそれぞれ枝がk本ある規則的な格子グラフがあるとしよう。この枝をすべて確率pでランダムにつなぎかえる。それによって、p=0で規則的な格子、p=1でランダムなグラフの間を調節することができる。今まで、このpが0と1の間という中間領域についてはほとんどわかっていなかったのだが、それをワッツが提唱した。

 ここでは、グラフの頂点と枝の数を変えることなく、規則的なネットワーク(左)からランダムなネットワーク(右)に移行するための、ランダムな枝の「つなぎ替え」を示している。左は、n個の頂点とそれぞれから出るk本の枝で最も近い頂点どうしが結ばれる規則的なグラフである(図では分かりやすくするため、n=20、k=4となっているが、後述の実際のネットワークではnもkもーもちろん想像つくであろうがー非常に多い)。真ん中は、これらの枝を確率pでランダムな頂点につなぎ替え、確率(1-p)でそのままにしたものである。この確率は0から1まで変化するが、p=0のときは規則的な格子で変わらない。しかし、徐々にランダムさが増加し、右のp=1で頂点間の枝は完全にランダムにつなぎかえられる。これは実際の社会をイメージしてもそうではないだろうか。我々の社会は全くの「閉じられた」環境ではない。もちろん多くの人は住む場所、職場、学校は固定されている。しかし本当にそれだけの関係しかないわけではないだろう。かといって、かなり「ランダム」に社会が決まっている訳でもない。もちろん家族や学校、職場は決まっていることが多いだろう。だから、ワッツが「スモール・ネットワーク」に際して述べたかったのは例えば具体例で言うと以下のようなことだ。僕自身も僕の家族も普通に日本で生活しているが、僕の母は、どうやらスイスに友人がいるらしい。するともちろん、僕の母のスイスに暮らしている友人はスイスでのネットワークも参加しているため、「僕」と「スイスのネットワーク」にも母を介していけることになる。これこそが真ん中のグラフにあるような「ランダムな線」であり、またスモールワールド・ネットワークであり、規則的なネットワークに見られるような「高いクラスター性」と、ランダムネットワークに見られるような「短い平均距離」という2つの特徴を併せ持っている。(ちなみに社会学者大澤真幸はアフガニスタンで医療活動に従事していた中村哲はその「ランダムな線」の代表者だとしている。確かに中村哲をご存知の方には、かなり納得できる事例だ。)

 しかし、僕が言いたいのは、特にネット社会は、先にも述べたように、加速度的に1番左の「閉じられたネットワーク」になっていないか、ということである。僕の「好き(っぽいもの)」や「見たい(っぽいもの)」を提供され、それを享受する。このシステムこそ、1番左の「閉じられたネットワーク」以外の何者だろうか。だからこそ、普段であれば読まないような執筆者の記事を”ランダムな線”として読むこと、その時間や場所を作ること、それこそが世界を広くしていくために非常に重要であり、それこそが「noteを読む会」の哲学的意義だ。僕は今回4人の方と”ランダムに”繋がった。soba ringoさん、大枝岳さん、ドンハマ★さん、山口篤志さん、短い時間でしたが本当にありがとうございました。皆さんの記事は「別の世界」を開くために読んでいこうと思います。

4. おわりに

 最後に、僕個人としては、上記の理由から「ハッシュタグ」は世界を狭くするものだと思うので付けないようにしている。が、今回はnote運営さんからの熱いハッシュタグ要請と、そしてこの記事が昨日参加された人の目に止まって、是非社会を、あるいは世界を広くしていく活動に一緒に参加して欲しいので、「#noteを読み合う会」のハッシュタグをつけようと思う。

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