見出し画像

反復と構造の中の自由ー大江健三郎『個人的な体験』

再び備忘録としてー。

 4月になった。新生活だ。僕は毎日、自宅から研修を受け続けている、そんな少々拍子抜けする社会人生活が始まった。慣れない文体と意味を駆使しながら毎日書く日報は、既に、僕にかつての文体と意味を忘れさせるには実効的であるらしい。しかし、僕は僕の文体や意味を出来るだけ忘れたくない。内的な自由を守りつつ社会と仲良くしていくつもりである。だから僕は、今日も、いずれ地上に落ちていくことが決定している紙飛行機を、それでもなお遠くへ飛ばすために惨めにも微調整し続ける少年のように、このnoteにて、僕の文体や意味を守るために惨めにもリハビリテーションをするのだ。

 さて、そんな社会人生活を始めてちょうど8冊目の記念すべき本が大江の『個人的な体験』だ。いずれ大江は全作品を読み通したい作家の一人なのだがーというよりも今までに読んでこなかったことに恥ずかしさを覚えるのだがー本作品も、他の大江作品同様大変良かった。

 『個人的な体験』は、大江の実子の体験を踏まえて書かれている。彼の長男大江光は、脳ヘルニアを持って、だからすなわち脳障害をもって産まれてきた。この作品の主人公である27歳の鳥(バード)も、だから、実際の大江と同じく、脳ヘルニア持つ子どもが産まれる。鳥は、この頭に瘤を持つ醜い障害児を前に、いや、というよりも父になることへの憂鬱さを前に、現実逃避を試みる。それは物語の前半においては、アフリカとアフリカ旅行への執着という形を取り、後半は夫に自殺されたやもめの大学時代の友人、火見子との性交という形を取る。子どもを安楽死させるべく火見子と堕胎医のもとへ預け、帰りに、自身の不良時代の後輩で、ある事件をきっかけに会うことのなかった菊比古が店主のゲイ・バーで、彼は突然転向する。子どもを、今後のために手術させることを決意し、引き受けて、育てていくことを受け入れるのだった。

 僕はこの小説に、反復と構造の中の自由を見出す。まず、整理するべきなのは、この小説は徹頭徹尾二項の対立が貫かれているということだ。「個人的」のネガは、この小説内の核実験反対運動にもあったように、もちろん「政治的(公共的)」だ。その他の対立を、些か駆け足に図式化すると、以下のようになるのだ。

個人的な体験ー政治的(公共的)な体験
父になることー超歴史的(アフリカ的)なこと
責任のない者(
鳥の子、狂人)ー責任を引き受ける者(火見子、菊比古

 まず、最上段の対比は、繰り返し述べるように、脳障害をもつ子どもが産まれるという最も「個人的な」悲劇と、それに対をなすような形で描かれるフルシチョフの大規模な核実験という「政治的な」悲劇だ。あるいは鳥は、子どもの誕生に伴って、「父になること」を引き受けなければならない。しかし、それができない鳥は、「超歴史的なこと」、すなわち人類のゆりかごの土地であるアフリカに執着する(子の立場)。さらに、母なる大地アフリカへの執着は、物語の後半、火見子の子宮にその場を移す。なぜ彼が火見子との性交に伴いアフリカへの興味を失ったのか。それは火見子との性交=子宮が、アフリカと、等価的機能を持っているからだ。どちらにも流れる通奏低音は母性であるといってよい。そして物語の終盤「父になること」を受け入れる鳥にとって、あるいは成熟した鳥にとって、もはや火見子の存在は意味を持たなくなるのだ。

 下段を僕は、「責任のない者」と「責任を引き受ける者」の二者に分け、そしてそれぞれを鳥の子と狂人、火見子と菊比古に分けた。後者から確認したい。この小説内で、主体的に責任をー小説内の言葉を借りれば「フランスの実存主義者」のように実存をー引き受ける主体は、火見子と菊比古だ。例えば、火見子は、鳥が自身の子の息を引き取らせようと決意したとき、以下のように述べる。

「かれに頼むことは、それこそ、わたしたちの」と火見子は異様なほどゆっくりした口調でいった。「手を汚して、赤ちゃんを殺すことよ、鳥」
わたしたちの手じゃない、ぼくの手を汚して、赤んぼうを殺すことさ」と鳥はいった。
(略)
「やはりわたしたちの手なのよ、鳥」と火見子はいった。
わたしが、わたしたちの手を汚すといった時、あなたは、わたしたちの手じゃないといったけど、やはり、わたしたちの手なのよ。鳥、わたしたち二人でアフリカへ行くわね?

 火見子は、鳥の責任を、「わたしたち(公共)」のものとして引き受けようとする。とはいっても、それは、彼女の、自殺した夫への決して贖うことのできない罪悪感からくる、幾分かマゾヒスティックなものであることは自明なのだが。では、菊比古はどうか。彼は、自身の性意識について、以下のように述べ、責任を取るのだ。

ホモ・セクシュアルの人間とは、同性愛を実行することを選んだ人間だ、というでしょう?わたし自身が選んだのだから、責任は他の誰にもないよ

 菊比古もまた、「同性愛を実行する」ことによって極めて政治的にホモ・セクシュアルとしての責任を自ら引き受ける。かつて、顔を持たないあるフランスの知の考古学者が、「ゲイであるということは、生き方を発明すること」であると極めて主体的に自身をそう定義したのだが、菊比古の言うこともまた、極めてそれに近いものであると言える。総じるとすれば、火見子も菊比古も、徹底的に責任を引き受ける主体なのだ。

 それに対して、鳥の子は責任を引き受けることができない。まずもって、産まれたばかりの子どもほど「責任」という文字から遠い存在はない。彼らは、常に既に産み落とされた(was born)存在であり、その生存から、誰かの選択によって準備されたものだ。鳥の子が脳性ヘルニアを患って産まれてきたのも、また同様である。そしてそれはもちろん、病いという形で共通している、かつて鳥が探しあぐねた狂人もそうだ。狂人もまた、自ら主体的になれるものではない。狂人という経験とは、すなわち、産まれる経験と同じく、常に事後的で受動的なものでしかないのだ。彼らには、誤解を恐れず述べるならば、責任を取るべき主体が欠如している。

 僕らは通常、個人的なことと政治的(公共的)なこと、責任を取らない(取れない)主体と自覚的に責任を取る主体であれば、いつも前者を揶揄し、後者を称賛する。個人的なことばかり気にしているのは、自己中心主義的であり、責任を取らないなど社会性がない、云々。しかし、鳥は違う。鳥は、いつも前者を擁護する。この大江の小説でやはり多くの読者が違和感を持つ場面は、終盤の鳥の急な転向だろう。彼は突如として子を殺す殺人者から、ヒューマニストになったのか。それは違う。ヒューマニストとはどこまでいっても歴史的で公共的なものだ。では、なぜ鳥は自分の息子を育てる決意をしたのか。鳥は再会した菊比古を前に、気付いたのだ。かつて鳥は、個人的な事情を優先させ、社会から必要とされない、醜い狂人を、菊比古よりも優先した。そして今また、鳥は、社会から必要とされない、醜い、彼の子を前にしている。彼は彼の経験を遡及したとき、そこに「個人的な体験」を優先させる自分がいることに気付いたのだ。そして、それを、あえて、同型反復的に繰り返すことを、主体的に選択する。彼は再び、「個人的な体験」を優先するという構造に絡め取られる。しかし、それは彼が紛れもなく主体的に選択したことだ。自身の経験を意図的に反復し、構造の中の自分を見出す選択をするほんの一瞬、彼から自由の火花が散る。鳥は、そのことに気付いたのだ。

 反復と構造の中の一瞬の自由、僕がそう述べるとき、念頭にあるのはフランクルの、生きる意味の「コペルニクス転回」だ。

ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることから何かを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えなければならない。
ー『夜と霧』

 では、最後に僕は、作家大江自身についても考えてみたい。大江がこの小説を書いたその翌年、一見非常に単純に政治的に見える『ヒロシマ・ノート』が出版される。一体これはどのような位置付けにあるのだろうか。大江の中での「個人的な体験」と対比される「政治的な体験」は、如何なる関係にあるか。最後にこれを考えてみたい。最初に結論を述べてしまうのならば、恐らく、大江は徹底的に具体的普遍(ヘーゲル)の人なのだ。彼は彼自身の「個人的な体験」に深く、どこまでも深く潜り込む。彼が内在するために掘る穴は、恐ろしく深く、狭く、そして暗い。身動きの出来ないその構造に絡まれながらも、それでも深く深くへと掘り続ける行為を反復し続ける。しかし、まさにそのことによって、ある時ふと、コペルニクス転回が生じる。「個人的な体験」を深く深く追求することによってのみ、真に自由かつ普遍的で政治的なことに辿り着けるのだ。『個人的な体験』と、その翌年出版される『ヒロシマ・ノート』はまさしくそのようなことを僕に教えてくれる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?