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セカイ系の亡霊たち ―連合赤軍・『ノルウェイの森』・新世紀エヴァンゲリオン―

1. はじめに 

 <現代>とは何か。本論では、それを、「この世界に内在している<わたし>と<わたし>以前の<歴史>の接続を感じられる期間のこと」である、と定義したい。その上で、我々は<現代>の起源をどこに設定できるだろうか。はじめに本論の結論を早急に述べれば、それは1970年代にある、と答えることになるだろう。我々は、後に詳細に検討するが、1970年代〜1980年代に生じた二つの社会的事象(連合赤軍―村上春樹)の形式が、奇しくも1995年〜2021年現在(「新世紀エヴァンゲリオン」旧劇シリーズ―新劇シリーズ)にも同型反復的に繰り返していることを確認する。そして、この両者の同型反復的な事象は、サブカルチャーを論じる際にしばしば用いられる「セカイ系」というサブカルチャーを批評する際の概念を補助線に読み解かれる予定である。 

 本章の構成として、次の2章では先に確認した鍵になる概念である「セカイ系」を解説する。この概念自体、主にインターネットを通じて広まったものであるため、定義自体が明確に定まっている訳ではない。そこで、2章では本論で用いる「セカイ系」の定義を確認する。続く3章ではまず、1970年代〜1980年代における連合赤軍と、それを回収した村上春樹の『ノルウェイの森』を考察する。さらに4章では、1990年代後半に社会現象になった(そして今もなっている)庵野秀明を中心とするアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」シリーズを考察する。最後に、5章では3・4章の考察を経て、結論としたい。ここでは我々は日本社会が戦後どのような問題を抱え、それが如何に1970年代から脈々と受け継がれているのかを確認する。 

 また、ここで<現代>の起源とその系譜として具体的に「連合赤軍」・「『ノルウェイの森』」・「新世紀エヴァンゲリオン」を考察するにあたって、特に後者2つはあまりに任意度が高く、限られた問題を大げさに取り上げたものにも見える。しかし、北田[2015]は、社会学という学問領域の持つ「対象の任意性」を着目する。そしてその任意の対象に対して当事者レベルと二階の観察関係に方法論的自覚を持つことで、社会学という知が取り扱う問題に関係なく「社会的なもの」との接点を持ち続けられるとする。<現代>の起源を読み解くにあたって、この点は考慮されなければならないだろう。

2. 「セカイ系」とは何か 

 「セカイ系」とは何を指し示す言葉なのだろうか。まずは、インターネット百科事典であるWikipedia[1]での定義を確認しよう。Wikipediaによると、セカイ系とは、「アニメ・漫画・ゲーム・ライトノベルなど、日本のサブカルチャー諸分野における物語の類型の一つである」とされている。この「日本のサブカルチャー諸分野における物語の類型」は、前島[2010]によれば、初出の根拠を、2002年10月下旬で、作家槻矢いくむが運営していたインターネットウェブサイトに求められるという。この言葉の当初の意味としては、前衛的でサブカルチャー的とされていた、「1人語りが激しく、自身の了見を『世界』という言葉で表したがる」要素を揶揄的に批判するものであったとされる。それが後、活字出版上でも登場するようになり、サブカルチャー批評の界隈で受容されるようになる。その中で、特に代表的な論者の1人である東[2007]は、「セカイ系」を「主人公と恋人相手の小さく感情的な恋愛関係(「きみとぼく」)を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな存在論的な問題に直結させる想像力を意味している」(p. 96)と定義している。すなわち、本来であれば「わたし―社会/国家―世界」という図式[2]で理解されるべき生活世界が、「わたし」と「世界」を媒介する「社会/国家」が欠け、わたしとあなたの関係がそのまま「世界」の破滅/救済に関わってくる作品が、セカイ系と称される作品群なのである。そして、後に詳しく言及することになるが、このセカイ系作品の始祖の作品として、「新世紀エヴァンゲリオン」シリーズは挙げられるのである[3]。

3-1. 連合赤軍・『ノルウェイの森』 

 さて、先の章で「セカイ系」という語の定義を簡潔に確認した。そこで、本章では、いよいよ具体的な事例を見ていくが、先に本章の構図を示すと以下のようになる。「セカイ系」を2000年代から遡行的に社会的事象内へ適用すると、そこには「連合赤軍」が立ち現れてくる。そして、その「セカイ系=連合赤軍」の問題を文芸の世界で解決した存在こそ同じく「セカイ系=村上春樹」の『ノルウェイの森』である。そして、これらを繋ぐのは共に「女性性」、さらに踏み込んで言えば「母性」の問題である、と本項では荒削りな図式を先に提示し、次項以降詳細に考察する。 

3-2. 「総括」を総括する 

 さて、本項では、連合赤軍について、その事件が一体今回の論旨の中でどのような意味を持っていたのかということを確認する。ごく簡単に歴史的文脈を振り返ろう。1960年代後半は各国で政治運動が盛んになった、所謂「熱い時代」であり、それは日本も例外ではなかった。左翼的イデオロギーをチューニングした学生たちは、ベトナム戦争反戦運動から、羽田闘争、大学自治の問題まで、様々な学生党派がヘルメットにゲバルト棒というスタイルで、権力に対抗していた。

 しかし1970年代に入ると党派間の対立、所謂「内ゲバ」の激化や行き過ぎた武装強化によって、学生運動の支持が失われていく。そのような学生運動が下火になっていた時期に、残存していた2つの勢力(赤軍派と革命左派)が統一して完成したものこそ「連合赤軍」である。彼らは暴力手段を用いた共産主義革命をすべく、1971年〜1972年にかけて山岳で訓練をする。この際に生じた①山岳アジト内で行われたと連合赤軍内の集団リンチ事件、「山岳ベース事件」と②山岳ベースから逃亡した連合赤軍メンバーによる人質籠城事件である「あさま山荘事件」の2つの事件を総称して「連合赤軍事件」と呼ばれることが多い。それでは以下この2つの事件を軸に、「連合赤軍」とは何であったのか、という問いに我々は答えを出そう。

 山岳ベース事件は、大塚[2001]の議論を参考にしよう。大塚は、先にも述べた連合赤軍が2つの党派(永田洋子を中心とする革命左派と、森恒夫を中心とする赤軍派)の統合であることを着目する。そこで、赤軍派の男性原理と永田は衝突していた。その原因は、永田が本来同世代の少女漫画家「花の二十四年組」と同様の「かわいい」という感覚を持っていたのにも関わらず、それを上手く表現し得なかったことにあった。それ故、その違和感が攻撃性に転じたものがリンチ事件であったとしている。これは大変クリアな図式で、説得力がある。実際に、ジェンダー的にも、赤軍派が男性中心であったのにも対し、革命左派は看護学校の生徒なども所属しており、女性たちがかなり多い。

 そしてそれが初めに現存化したものが、後の悲劇の始まりとも言える「総括」の起源、「水筒事件」である。これは、先に赤軍派が南アルプスに山岳ベースを作っており、そこに後に革命左派が合流した際、革命左派が水筒を持ってきていないことに対して、「山をなめている」ので自己批判のための「総括」をせよ、という事件だ。この事件は、連合赤軍内での赤軍派と革命左派の主導権争いの問題でもあったため、革命左派の中心人物であった永田はここに強い屈辱感を覚える。

 永田は、その後、水筒事件の反撃として、赤軍派の遠山美枝子を批判し始める。遠山は、赤軍派の幹部の妻として特権的な身分として扱われ、化粧やパーマをしていた。そこに永田は目を付け、「共産主義の地平」から、それは「兵士としてどうか」と攻撃する。赤軍派も、権力闘争の観点から革命左派側から出た批判に応えるべく、それに加担していく。ここから、リンチの、「総括」の連鎖が始まっていくのである。その後、「総括」という否定神学的マジックワードが1人歩きし、計12名が命を落とすことになる。

 我々はここで、立ち止まり、考えなければならない。なぜ日常における諸々の事情(水筒を忘れた、化粧をしている)で、共産主義化(=革命)のための自己批判をしなければならないのか、人が死ななければならないのか。我々は先の議論で、「わたし」と「世界」を非常に単略的に繋げてしまう事情によく適する言葉を知っている。それが「セカイ系」という言葉である。故に、暫定的にこう言えるのではないか。山岳ベース事件こそ、セカイ系の起源ではないか、と。 

 また、これは森恒夫と永田洋子個人にも言えることである。再び大塚の議論を参照すると、森は極めて「女性の性的身体」を嫌悪する傾向あったという。(「生理の時の出血なんか気持ち悪いじゃん」「女はなんでブラジャーやガードルをするんや」「どうして生理帯が必要なんや」)あるいは、永田は生い立ちから、極めて自身の所生としての「性」を忌避していた/理解できなかったことが伺えるという。その「性」の問題に対して、言葉を与えてくれるものが、永田にとっては「共産主義」というイデオロギーだったのではないだろうか。故に、「「女性」である自己を受容できない永田が、「女性性」を嫌悪する森との奇妙な共闘を結んだのが、連合赤軍事件の不可思議な構図」(p. 86)であると、大塚の言葉をかりて述べることができる。このように、極めて個人的な「わたし」の問い(「女性性」をどう処理するか)に対して、共産主義や革命という「世界」の答えを対置してしまう構図が、指導者2人の中に垣間見ることができる。それが集団として発動したのが「セカイ系=連合赤軍」だろう。 

 さて、ここまでの議論では、一部の左翼学生が起こした現実と虚構の取り違えの問題と一蹴されてしまう可能性がある。そこで、それをどのように日本社会が受容したのかという問いを「あさま山荘事件」と絡めて提示したい。この点は野上[2005]の議論を補助線にしよう。あさま山荘事件において、もちろん連合赤軍側は、銃を所持しており、またその武装理論も現実化すべく提示されたもの(毛沢東『遊撃戦論』、チェ・ゲバラ『ゲリラ戦争』)を援用していた。しかし、通常の警察を以て制圧可能であったということを鑑みても、実際の「戦争」とは程遠い。しかし、野上によれば、あさま山荘事件がテレビを中心とするマス・メディアを通して「戦争」というメタファーを通して受け取られたという。例えば具体例として、メディアがこの事件を「攻城戦」や「兵糧攻め」のメタファーを多用したことや、新聞が籠城開始以来連日にわたって大幅に紙面を用いてことが戦時中の戦況記事に類似していることを挙げている。それ故に、野上は、「重要なのは、これが「戦争であるか/ないか」ではなく、「戦争として」受容されたこと」(p. 97)であると主張する。以上を鑑みると、1970年代には誰もが皆、中間の媒介を経ない「世界」の答えである「革命」や「戦争」を望んでいたと言えるのではないか。それこそがセカイ系の起源としての1970年代であると言える。

3-2. デウス・エクス・マキナとしての緑 

 前項でみた連合赤軍事件は、あさま山荘に警察が突入するあの衝撃的なシーンと共に終了する。その前後で逮捕されたメンバーと共に、彼/彼女らはテロ組織として、あるいはリンチ集団として罪を公的に償うことになるが、観念的な「セカイ系=連合赤軍」はそこで終了したのだろうか。本論ではそのように考えない。「セカイ系の亡霊」は成仏していない。そこで本項ではある作家に登場してもらうことになる。その作家こそ、村上春樹である。これは決して恣意的な選択ではない。村上の初期作品は、特に学生運動が1つのモチーフとして登場している[4]。これは村上自身も、学生運動に参加していた世代である「団塊世代」の一員であること、またその時代にもちろん村上自身も大学生であったことに起因する。 

 自身も団塊世代である川本[1982]は、村上春樹の初期長編三部作(『風の歌を聴け』・『1973年のピンポンボール』・『羊をめぐる冒険』)に執拗に登場する「羊」を以下のように捉えている。やや長いが連合赤軍―村上春樹を一本の線で結ぶためには大変重要であると思われるので引用したい。 

 「羊」とはいったい何なのか。おそらく村上春樹はそれは結局は何かのメタファーではなくメタファーのためのメタファーだといいたいに違いない。事実、その通りだろう。
 だがそれを承知で私としては最後に敢えてこの「羊」の正体を解釈してみたい。村上春樹がこだわりつづけた「羊」とは実は、あの一九六〇年代末期から七〇年代初頭にかけて当時の若い世代をより非現実の彼岸へと押しやった「革命思想」「自己否定」という「観念」ではないだろうか。「僕」の前から急に姿を消し、最後、失踪につぐ失踪を重ねた友人の「鼠」が突然、死者になって戻ってくるのは、彼があの時代に「革命思想」にひかれ、「死んでいった」無数の沈黙しつづけている死者の象徴だからではないのか。「鼠」が北海道のなかの別荘で一人暮らししていたという設定は、私たちの世代に「72年の2月の暗い山で道にまよった」(少女漫画家・樹村みのり『贈り物』より)あの「連合赤軍」の死者たちをも思い出させはしないか。 

川本[1982], p. 294

 我々が、以上に引用した川本の評論の図式の上で村上春樹を論じるならば、村上春樹という作家の初期作品に見られるテーマの一つに「革命思想をどう総括するのか」というものがあったと仮定することができるだろう。 

 その村上の作品の中で、圧倒的な断絶があるのは『ノルウェイの森』以前/以後であると言える。どういうことか。村上の初期長編作品(『風の歌を聴け』〜『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』)は極めて自閉的であると言える。特にその代表例として、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を挙げたい。この作品の構造は、一人称視点で描かれているものの、暗号を取り扱う「計算士」として実世界で働く「私」が存在する「ハードボイルド・ワンダーランド」と、「ぼく」が存在する、壁に囲まれ、「心」を失う代わりに、自足し安息した世界である「世界の終り」を交互に描く作品である。読者は、同一人物の実世界(現実)と象徴的な世界(虚構)を交互に訪れる形になる。その中で、「世界の終り」の主人公である「ぼく」は、徐々に心を失っていく。「ぼく」の「影」は「世界の終り」においては「ぼく」と分離しており、「ぼく」を「世界の終り」から脱出しようと説得する。これは「影(=現実)」が「世界の終り(=虚構)」にいる「ぼく」を現実世界に揺り戻すメタファーと捉えることが可能だ。最終的に「ぼく」は心を失うことを引き受け、「世界の終り」に残ることになる。絶対に越えられない壁に囲まれた世界で、自足的な生活を営む、ここに先に述べた極めて自閉的である所以が読み取れるだろう。 

 その村上の長編小説の系譜上において、繰り返しになるが、『ノルウェイの森』は極めてエポック・メイキングな小説であると言える。特に、形式上では、村上作品の中では珍しいリアリズム作品であること、また登場人物に固有名が付与されていることがその特徴として挙げられる。あらすじを簡単に振り返る。主人公ワタナベは高校生の頃、ワタナベと友人キズキとその恋人の直子の3人でよく遊んでいた。しかしキズキは高校3年生の5月に自殺してしまう。1968年の5月、大学生になり上京したワタナベと直子は偶然出会い、交際に発展する。1969年4月、直子の20歳の誕生日に2人が初めて寝た後、彼女は突如失踪する。7月に直子が京都にある精神病の療養所にいることを知らせる手紙が、ワタナベの元に送られてくる。それと時を同じくして、ワタナベは同じ大学の緑と出会い、時々会うようになる。ワタナベは何度か直子のいる療養所を訪れるが、8月26日に、直子は自殺する。ワタナベは直子の葬式を終えた後、緑に「世界中に君以外求めるものは何もない。君と会って話したい。何もかも君と二人で最初から始めたい。」(p. 292)という電話をかけ、物語は終わる。

 村上の作品の多くは、「こちら側の世界」と「あちら側の世界」という二項の対立が登場する。例えば、先に見た『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』では「ハードボイルド・ワンダーランド」と「世界の終り」だ。それはしばしば「現実」と「虚構」の関係とも、「生」と「死」の関係とも解釈可能だろう。 その図式に沿うと、目下検討中の『ノルウェイの森』は以下のように整理することができる。キズキが自殺によって「あちら側の世界(=虚構=死)」にいく。ワタナベと直子はそのキズキの自殺を受け、「こちら側の世界(=現実=生)」と「あちら側の世界」で彷徨う存在だ。直子は「あちら側の世界」へ行く。ワタナベは緑という「こちら側の世界」の人間に助けられ、「こちら側の世界」に止まり物語は終わるのだ、と。これは先に確認した『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で「ぼく」が自閉的な「世界の終り」に止まったこと対照的であると言える。

 そこで、我々はこう問わなければならない。それでは主人公ワタナベを「こちら側の世界」に止まらせた緑とは何者なのか、と。緑は、“地に足ついた”女性である印象を読者に与える。例えば、直子の調子がよくない旨を知り、「意識が弛緩」(p. 202)している僕に対して、緑は「人生はビスケットの缶だと思えばいいのよ。」(p. 210)というアドバイスをする。ビスケットの缶には好きなビスケットも嫌いなビスケットも入っている。そのため、嫌なことが早く起きれば残りは良いことばかりなのだ、と。そしてそれを緑は「経験的に知っている」(p. 210)のだ。緑は一貫して「主体的/積極的な女性」として、物語に登場し、ワタナベを導く。そのような女性が村上の小説に「デウス・エクス・マキナ(時計仕掛けの神)」的に登場し、ワタナベを救う。 これを、「セカイ系=連合赤軍」を終わらせるための「女性」の―森と永田が嫌悪/忌避し、向き合うことのなかった―登場と受容というように読み取ることは恣意的な解釈になるだろうか。

3-3. 小括 

 さて、ここで一度本論の主題となるテーマを小括として残そう。1971・1972年に事件を起こした連合赤軍は、煎じ詰めれば指導者2人の「女性性」に対する暴走であったと言え、これは極めて「セカイ系」の図式を描く。その連合赤軍の問題を扱った村上春樹の初期長編作品は、それを終わらせるための主体的/積極的に自身に介入する女性(「母性的なるもの」と換言可能。)を登場させた、と。「セカイ系」なる思想を終わらすものは「母なる女性」なのだ、という図式を小括にて提示する。 

4-1. 連合赤軍からオタク、そしてエヴァンゲリオンへ 

 さて、それでは村上春樹が回収した「セカイ系=連合赤軍」なるものはどうなったのだろうか。本論では、セカイ系は「亡霊」のごとく生き残り、それを1980年代から登場する「オタク」という存在に接続させたい。大澤[2008]は、オタクを特徴付けるものとして、①特殊な主題への興味、②現実と虚構を等価な構築物として見なすアイロニカルな態度、③他者を回避する非社会性、④身体の活動性の低下とそれに背反する身体への直接性、の4点を挙げている。興味深いことに、これらの4点は先に見た連合赤軍のメンバーも同時に保持していたものではないだろうか。①「共産主義化」「総括」といった特定の興味、②消費社会(=現実)が始まっているにも関わらず、革命(=虚構)を本気で志向する態度[5]、③他者を回避するために山岳へ、④森と永田に顕著である直接的な「身体」への嫌悪/忌避、とオタクの特徴と重なる部分があることが否めない。

 また、大澤自身、北田との対談[2008]の中で以下のように発言している。 

 連合赤軍もバカらしいことをやっているんだけれども、さすがに自分のことをバカらしいとは自己言及しないんですよね。そこで、もともとバカらしいんだから、じゃあ、それを自覚的にやってしまおう、そういうふうに、もう一段、バカらしさへの意識をつけ加えるとオタクになる。そういう感じがします。

大澤・北田[2008], p. 38 

 上記の大澤の発言を鑑みると、オタクは連合赤軍より一段階メタレベルに立ち(「バカなことをやっている」)自己を認識しているということは留意されなければならない。しかし、ここにおいて、連合赤軍とオタクは確実に接続される。オタクという存在そのものが、「わたし」と「世界」を単略的に結びがちな存在であったのではないだろうか。故に、1995年に『新世紀エヴァンゲリオン』が放映された際、多くのオタクたちに受容された。それはオタクたちの側にエヴァンゲリオンを受容する思想信条が元々インストールされていたからである。もちろん監督である庵野秀明はそれを意図的に行なって「エヴァンゲリオン」を作った。次項でそれを確認しよう。 

4-2. 終わらない「終劇」 

 アニメとしての「エヴァンゲリオン」シリーズは、「終劇(=物語の終り)」が3パターンある。どういうことか。1995年に放映された『新世紀エヴァンゲリオン(以降「TV版」と表記)』は全二十六話からなるシリーズだ。しかし、後に確認されるように、この「テレビ版」はラスト2話から物語を放棄し、主人公の内面世界を描き出す。(「世界の終り」に酷似している!)そこで、そのラスト2話分の物語を補うために1997年に『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に(以降、「旧劇場版」と表記)』が公開される。そして2007年から、「エヴァンンゲリオン」シリーズのリメイクとして、2007年から『エヴァンゲリオン新劇場版:序』が公開され、そこから『エヴァンゲリオン新劇場版:破』(2009年公開)、『エヴァンゲリオン新劇場版:Q』(2012年公開)と続き、新劇場版は2021年、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』によって3度目の「終劇」を遂げる。 

 あらすじを説明する。西暦2000年、人類史以来最大の災厄が地球に生じている。セカンドインパクトが発生し、世界人口の半数が失われた。「使徒」と呼ばれる謎の敵の襲来に備え(使徒が特定の場所に到着するとサードインパクトが生じるらしい)、人類は汎用人型決戦兵器エヴァンゲリオンを作成していた。物語は、2015年、14歳の主人公である碇シンジが、別れて暮らしていた父碇ゲンドウに呼び出され、第3新東京市に赴くところから始まる。ゲンドウがシンジを呼び寄せた理由は、シンジをエヴァンゲリオン初号機のパイロットにして、使徒と戦わせるためであった。シンジは、同級生で、同じくパイロットである、感情の起伏のない綾波レイ、勝気な惣流・アスカ・ラングレー(以下、アスカと表記)とともに、使徒と戦っていく。

 「エヴァンンゲリオン」シリーズの特徴として藤田[2021]は、①心理描写の多さ、と②主人公にすら解説されずに進んでいく諸々の計画・単語、の2点を挙げている。シンジは勇気がなく、戦闘の度に、逃げ出したくなるのを堪え、「逃げちゃダメだ」と繰り返す。友達もおらず、携帯電話は誰にも鳴らしてもらえない。そのシンジの内閉的な心情を丁寧に描写する。その一方で、襲来する使徒は非常に観念的・抽象的な形状をしており、なぜ倒されるべきなのかがシンジには分からない。そして、なぜ繰り返し使徒が襲来するのかもシンジには説明されない。巨大な陰謀や計画が進んでいるようだが、科学・哲学・宗教的な用語や意匠が数々登場しては解説されないまま物語は進んでいく。物語の最終部で明らかになるのだが、使徒と戦う目的は、父ゲンドウが亡くなった妻、すなわちシンジの母ユイを取り戻すために、人類全体を一つにするという「人類補完計画」のためであった。

 まず我々が注目しなければならないのは、この物語のプロットが明確に「セカイ系」の特徴を有していることである。人類の終わりや滅亡は、結局シンジとゲンドウを中心とした親子の関係、そしてシンジとその他のパイロットを中心とした恋愛事情で、そこには本来「世界」は関係ないと言っても良い。しかし、それが「人類補完計画」等の世界の破滅に繋がってくる。「エヴァンンゲリオン」シリーズとは、元祖にして王道のセカイ系作品である。

 さて、先に見た「新世紀エヴァンゲリオン」シリーズの3つの終わりは、主人公シンジの「人類補完計画」に対する向き合い方であると言ってもよい。内閉的で、他者を恐れる主人公が、どのように他者と折り合いをつけるか。「人類補完計画」が完遂されれば、もはや他者を恐れる必要はない。なぜなら全ては一つなのだから。これは換言すれば「人類補完計画」という虚構を生きるのか、それとも「他者」という現実を生きるのか、という「連合赤軍―村上春樹」の提示した問題が再び生じていると言ってもよい。再び藤田[2021]によれば、この問いは「エヴァンゲリオン」シリーズでも貫かれている。庵野秀明自身が、宮崎駿など「戦後日本」を問うアニメーターの影響を強く受けているとし、その上で、「エヴァンゲリオン」シリーズは、平和で豊かな消費社会化した日本において、他者や現実から忌避する「オタク」を一貫して批判していると主張している。故に、「シンジ」とは「オタク」であり、「人類補完計画」とは「虚構の中で生きること」のメタファーであると言えないだろうか。そして1970年代から、あのあさま山荘事件を起こした連合赤軍もそれをテレビの画面の向こうで見ていた日本国民も、皆、オタク同様の心情があったと言っても良いのではないか。だからこそ、「エヴァンンゲリオン」シリーズは、多くの人々に受容されたのだ。

 さて、①「テレビ版」、②「旧劇場版」、③「新劇場版」におけるシンジの「人類補完計画」における選択を考察すると、①から③に従ってシンジは明確に「他者(=現実)」を受け入れているように思える。次項でその様子を確認すると共に、なぜ「新劇場版」では他者(=現実)を受容することができたのかを考察しよう。

4-3. デウス・エクス・マキナとしての真希波・マリ・イラストリアス 

 前項では、「エヴァンゲリオン」シリーズにおける①「テレビ版」、②「旧劇場版」、③「新劇場版」におけるシンジの「人類補完計画」の受容における違いを確認すると述べた。ここで先に分類すると、我々は、旧劇版と新劇版、すなわち①②と③の間で明確な線を引くことができるだろう。そしてその原因も分かるだろう。

  ①「テレビ版」では、先にも述べたように、最終回より2話は、物語の進行を放棄し、補完に巻き込まれたシンジの内面世界を描く。主人公シンジは「みんな僕のことが嫌いじゃないのかな?」という「わたし」の疑問を内面世界で考える。イメージとしてのシンジ以外の登場人物がその問いに好意的に答える。シンジはそれを受け、「ありがとう」と応える。自身を肯定的に捉えることができ、補完から目覚める、という極端に強引な形で「TV版」は終わる。ここでは、実際に「現実」に戻ってきたは良いが、しかしそれはどこまでも自己救済的であり、「他者」との交流はなされない。②「旧劇場版」では補完から目が覚めた後の「他者」との交流を描く。そこでシンジは、同じパイロットでもあり、意中の相手であったアスカの首を絞めてしまう。アスカはそのシンジに対して「気持ち悪い」と言う。ここでも、「現実」に戻り「他者」と接したものの、コミュニケーションの不可能性が描かれている。 

 ③「新劇場版」は上記の①②とは明確に異なっている。まず、「新劇場版」から新たなるキャラクターである「真希波・マリ・イラストリアス(以下、マリと表記)」が登場していることは留意されなければならない。新劇場版、父ゲンドウと対話し、人類補完計画を防いだシンジが、(交際しているであろうと思われる)マリと手を繋ぎ、走り出すというシーンで終わる。ここで画面上もアニメーションから、実写映像に切り替わる。その実写映像の中を駆けるシンジとマリ。ここでは、明確な形で「虚構」から「現実」へ、コミュニケーションの不可能性から可能性への転向が描かれている。 

 では、一体シンジとカップリングしたマリとは誰なのか。マリはシンジらと同じくエヴァパイロットである。佐々木[2021]は「マリとは何者であったのか」という我々が目下検討中の問いと同様の問いを立てている。佐々木によればマリは「他の登場人物のような性格的な陰影やネガティヴな要素が全くと言っていいほど存在していない」(p. 96)とし、「EVAに乗ること、使徒や(のちには)NERVと戦うことへの不安や葛藤も、その言動からはまるで感じられない。可能な限りポジティヴで楽天的な態度を貫いており、もちろんシリアスな一面もありはするのだが、その軽やかさと無邪気さは「エヴァ」の世界では明らかに異色なものだと言える。」(p. 96)としている。本論でも、「新劇場版」におけるマリは以上のように描かれているとしたい。そして佐々木は、そのようなマリはシンジの「新にして真の恋人、シンジの妻、シンジの未来の子の母となるために、ただそのためだけに、「作者」たちによって、庵野秀明によって創造、いや、「捏造」され、いわば正真正銘の「最後の使徒」として、颯爽と「エヴァ」の世界に送り込まれた」(p. 97)のであるとしている。実際に、マリのみ他のシンジの周囲のヒロインと違い、「女性性」を全面に出したプロポーションをしており、また、シンジに対して「どこにいても必ず迎えに行くから。待ってなよ。」と声をかけるなど、他のキャラクターとは異なりシンジをリードする”地に足ついた”女性像を演出している。 

 さて、ここには、先の『ノルウェイの森』の緑と同様に、物語を終わらせるためだけに挿入される「主体的/積極的な女性」像を思い出さずにはいられない。そう、真希波・マリ・イラストリアスもまた、「デウス・エクス・マキナ」であるのだ。繰り返し描かれる「セカイ系」と、それを終了させるための「母性的な女性」。これは社会(学)的に一体如何なる意味を持つのか。いよいよ、次の章で先に見てきた戦後を代表する事件、作品から逆照射される戦後日本社会、<現代>を確認したい。 

5. 「喪失」の喪失―結びに変えて― 

 ここまで、1970年代から同型反復的に立ち現れる「セカイ系」とそれを回収するための「主体的/積極的な女性」というモデルを、戦後日本社会に多大な影響を与えた連合赤軍・『ノルウェイの森』・「エヴァンゲリオン」の3点に絞って考察した。勘のいい読者であればお気付きであろうが、本論は、江藤[1993]の議論を意識しながら書かれている。江藤は、戦後日本社会が、圧倒的な経済発展を遂げ、そこで“母なる”自然を失っていったと評した。母を失った日本から産まれる日本人は、依然として「成熟」できない。なぜなら、江藤によれば成熟とは「なにかを獲得することではなくて、喪失を確認することだからである。」(p. 32) 現代の日本人は、もはや成熟のために喪失する母がいない。故に、裏口からやってきた「母胎回帰」という捻れた形で、妻を必要とし、母として捏造するしかない[6]。これは戦後日本社会が抱える精神分析的問題だ。しかし、それはなぜ1970年代から、それが始まったのだろうか。それは何度か本論でも触れたが、「団塊世代」から脈々と受け継がれている心情ではないのか。なぜ団塊世代からか。団塊世代は一般的に、戦後すぐに(1947年〜1949年)産まれた世代であると定義されている。8月15日を境に、一夜にして天皇主義者が民主主義者になったことすら忘却し、今までの全ての「歴史」を捨て去ったことすら忘却した(あるいはそうせざるを得なかった)初めての世代が、団塊世代だ。そう定義するのであれば、自身の参照点である「歴史」―それは修正主義的でも自虐史観でもない―を自身の手元に取り戻さない限り、 “母なるもの”の「喪失」の喪失が、「セカイ系の亡霊たち」を歴史の彼方から、何度も呼び戻し、日本人はいつまでも「成熟」しないままであろう。

注釈

[1]出典:Wikipedia, 「セカイ系」, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E7%B3%BB#cite_note-FOOTNOTE%E5%89%8D%E5%B3%B6%E8%B3%A2201027-3(参照 2021-07-01)

[2]この「わたし―社会/国家―世界」という「セカイ系」における図式は、例えば東[2011]はジャック・ラカンの「想像界―象徴界―現実界」を、斎藤[2008]は別役実の「近景―中景―遠景」といった概念に対応させて解説しているが、本論では参考程度に止めたい。

[3]中尾[2011]は、「セカイ系」と意味するものがほぼ同じ語として「ポスト・エヴァンゲリオン症候群」という語を挙げている。これは岡田斗司夫がアニメ『最終兵器彼女』を評論する際に取り上げた言葉であり、このアニメが「新世紀エヴァンンゲリオン」シリーズの影響下にあり、それは内面の問題と世界の破局が中間の領域を無視して描かれいてるという意味である。

[4]小説内でも度々学生運動について言及されるほか、例えば加藤[2020]は、「一九六〇年代末期のいわゆる学園紛争からひとすじのびる影は、『羊をめぐる冒険』三部作をつなぐ一本の赤い糸である」(p. 33)と書いている。また、大澤[2009]も、その初期長編三部作の二作品目『1973年のピンポンボール』の舞台が、あさま山荘事件(1972年)の翌年である1973年に設定されていることに着目している。

[5]この点に関しては、現在の我々から見れば革命が虚構に、空虚に映るが、筆者自身が当時の時代感をリアルタイムで生きている世代ではないため、このように一蹴してよいのか因循している。

[6]例えば、我々が考察してきた村上春樹の作品には、「母」と同位置に「妻」がいる構造を大塚[2009]は指摘しているし、先に見た佐々木[2021]の「エヴァンゲリオン」シリーズについての評論のタイトルはまさしく、「「母」の解体、「妻」の捏造」である。

参考文献 

東浩紀 2007 『ゲーム的リアリズムの誕生―動物化するポストモダン2』, 講談社 
東浩紀 2011 『郵便的不安たちβー東浩紀アーカイブス1』 , 河出書房新社
江藤淳 1993 『成熟と喪失 “母”の崩壊』, 講談社
大澤真幸 2008 『不可能性の時代』, 岩波書店
大澤真幸 2009 『虚構時代の果て』 , 筑摩書房
大澤真幸・北田暁大 2008 『歴史の<はじまり>』, 左右社
大塚英志 2001 『「彼女たち」の連合赤軍―サブカルチャーと戦後民主主義』, KADOKAWA
大塚英志 2009 『物語論で読む村上春樹と宮崎駿―構造しかない日本』, 角川書店
加藤典洋 2020 『村上春樹の世界』, 講談社
川本三郎 1982 「文芸時評 八月ー村上春樹をめぐる解読」, 『文學界』36(9) : 288-295
北田暁大 2015 「社会学的忘却の起源―社会学的プラグマティズムの帰結」, 『現代思想』43(11) : 156-187
北田暁大・野上元・水溜真由美編 2005 『カルチュアル・ポリティクス1960/70』, せりか書房
斎藤環 2008 『文学の断層ーセカイ・震災・キャラクター』, 朝日新聞出版
佐々木敦 2021 「「母」の解体、「妻」の捏造―『シン・エヴァンゲリオン』論―」, 『小説トリッパー 2021年夏号』80-101, 朝日新聞出版社
中尾健二 2011 「セカイ系の世界経験をめぐって」, 『日本社会情報学会全国大会研究発表論文集』 26(0) : 77-82
藤田直哉 2021 『シン・エヴァンゲリオン論』, 河出書房新社
前島賢 2010 『セカイ系とは何か』, SBクリエイティブ
村上春樹 2004 『ノルウェイの森(下)』, 講談社

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