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「まなざすこと」と「まなざされること」ー立川ホテル殺傷事件についてー

1. はじめに

 大変痛ましいニュースが飛び込んできた。東京都立川市のホテルで男女が刺されて殺傷されたのだ。殺傷したのは19歳の少年で、殺傷されたのは風俗店の店員の女性と同じ店で働く男性であった。女性は死亡し、男性は重傷を負ったという。少年と女性との間には全く面識がなく、少年は「人を殺す動画を見て刺激を受けた」「無理心中しようと思い、その様子を撮影しようとした」と供述している。

 と、ここまで聞けばそれは、いかにも凶悪で残忍な少年が無作為に選んだ人と心中ーあるいは殺人ーしたように聞こえる。(もちろん殺傷は事実であり、それは許されることではない。また、以下に述べる論は少年の罪を免責するものでは決してない。)しかし、後続の報道で、彼の生い立ちが明らかになるにつれて、この事件の持つ一種の社会(学)的問題が浮き上がってきているように思える。我々は、誰しも、本事件の少年でもありえたということだ。その意味で、誤解を恐れずに言えば、彼の行った罪に対して、「道徳」的には断罪するべきであるが、「倫理」的には明確に断罪しがたいのではないだろうか。[1] 本事件の社会(学)的な性質を明らかにする前に、我々はまた別の対比される二つの殺人事件を考察する。それは、本事件が後述する対比される二つの殺人事件の延長上にあるものであるように思われるからである。そこで、本論の構成として、続く2章でその対比されるべき殺人事件の特徴を確認し、再び目下考察中の立川ホテル殺傷事件に戻ってくる。我々はそこで今回の事件がより、悲惨なものであることに気づかれるだろう。

 また、事件の全貌は未だ明らかにされているわけではないため、あくまでも2021年の6月6日時点での現状で述べうることを述べる。

2.  NとK ー「まなざし“からの”地獄」と「まなざし”への“地獄」ー

 ここでは、我々は先に述べたように、二つの大変痛ましい殺人事件を対比させる形で考察する予定である。そしてその事件とは、罪を犯した者のイニシャルをとって「N」と「K」の事件として提示される。それは正式には、「永山則夫連続射殺事件」と「秋葉原通り魔事件」と称されている。この二つの事件は、正反対の性質を持ちながら、しかし、どちらも「<他者>のまなざし」に関係づけられている無差別殺傷事件という意味で共通である。

 Nの事件を社会学的に分析した見田[2008]は、「N」は<他者>たちのまなざしが地獄だった、と結論付けている。どういうことか?Nは中卒で上京し、東京に就職した。当初Nは非常に勤勉に働いていた。しかし、 徐々にまなざす<他者>から、出自による方言や、垢抜けない態度、戶籍謄本などの表相性を通じて、「田舎者」「貧乏人」「低学歴者」等と規定されてしまう。すなわち、<他者>のまなざしが、その人物の社会的ア イデンティティを規定してしまったのだ。それに耐えきれなくなったNは、仕事を辞め、身分を詐称し、それが発覚しそうになった時点でまなざす<他者>を計4人射殺した。1968年のことであった。このNの事件は端的に述べれば「まなざし“からの”地獄」の問題と言えるだろう。

 それと対比される事件であるKの事件は、通称「秋葉原通り魔事件」と呼ばれる。Kは2008年、秋葉原にて計17名を殺傷した。犯行を決意した理由はー驚くべきことにー「職場の更衣室に自らの制服がなかった」からだ。我々は普通、以上のような理由で、人を殺そうとは到底思わない。ここに我々が感じ取れるのは<他者>の生の認識に対する圧倒的な「軽さ」だ。なぜだろうか。Kが生得的に残忍なサイコパスだったからだろうか。恐らくそうではない。Kが簡単に17人もの人々を殺傷できたのは、自らの命もまた「軽く」認識していたからだろう。例えば、Kは、 ネット掲示板によく自身の実存的な悩みを投稿していた。例えば、「一人で寝る寂しさはお前らにはわからないだろうな。ものすごい不安とか。...(略)... 勝ち組はみんな死んでしまえ。」Kは誰からもまなざされない(と感じていた)。家族からも、職場からも、女性からも。彼の希求した<他者>からの「まなざし“への”地獄」が、現前したものこそ、「秋葉原通り魔事件」であるだろう。そこで彼は、皮肉にも、テレビを通して、画面越しの<他者>”から”のまなざしを受けたのである。

 どちらの事件も無差別に人を殺めたことは間違いない。しかし、NとKにおいて徹底的に異なるのは、<他者>の死に対する態度の違いにあるように思えてならない。Nは、自らをまなざす<他者>から逃れられなかったが為に人を殺めた。NはNでしか足り得ないという、存在の耐えられない重さ、その事実が彼にして人を殺めさせたのだ。しかし、Kの殺人は非常にー動機からしてー軽い。しかしその、誰からもまなざされない「存在の耐えられない軽さ」(クンデラ)が反転し逆照射されたものこそ、「秋葉原通り魔事件」に他ならない。

3. 「風俗業(=自分)はいなくていい」

 さて、我々は先の章で二つの事件を対比させる形で考察し、それらをそれぞれ「まなざし“からの”地獄」と「まなざし”への“地獄」と名付けた。第一次近似的に述べるとすれば、今回の立川ホテル殺人事件は、後者の「K」の事件に親和性の高い、「まなざし”への“地獄」であると言えるだろう。なぜか。例えば我々は、産経新聞の記事[2]で、彼の生い立ちを伺うことができる。やや長いが、以下に引用する。

「少年の親族や知人らも、おとなしい性格だと口をそろえる。ただ、近年は感情面や環境面に変化が生じていたとみられる。/ 異変が生じたのは、高校入学後。周囲には「いじめに遭った」と告白していた。いわゆる「陰口」の類いだったとされ、次第にクラスで孤立し、そのころから感情の起伏が激しくなったという。退学して通信制に編入、卒業。その後は就職した高齢者施設でもなじめず、上司から病院への受診を打診されるなどし、辞めた。/ 今年に入ってからは、工場の就職先を見つけたが、先輩からモノを投げられるトラブルがあり、すぐに辞めた。周囲は、少年の将来を心配していたが、次第に友人らとも会う機会が減り自室でゲームに没頭するなどしていたという。」

 我々はここにも、「K」と同様に、社会からまなざされない少年の姿を伺える。そしてそのような意味で、少なくとも、学校や、職場には彼を必要とする人はいないと(彼自身は)感じていたのではないか。彼はまなざされないが故に、彼自身を大切にできない。自身を大切にできないが故に、また彼は、<他者>も大切にできない。先の産経新聞の記事から、彼は風俗業について、「あんな商売をやっている人間はいなくていい。風俗の人はどうでもいい」という趣旨の発言をしたという。しかし、これは恐らく、(精神分析的な意味で)彼の本意ではない。彼は「風俗の人」に自身を重ねたのだ。彼自身の認識における風俗業は、自分と同じく「社会からまなざされない人々」であって、その意味で自分と同じである、と。故に、彼の発言である「風俗業はいなくていい」というのは同時に、「自分もいなくていい」ということの現存であるのだと我々は捉えることができる。その意味で、繰り返しにはなるが、第一次近似的に、2008年の事件と2021年の事件はその延長にあると、述べることができる。

 しかし、ここで「K」と異なるのは、「K」は秋葉原の、歩行者天国に、トラックで突っ込み、殺傷したことで世間からのまなざしを逆説的に獲得したことに対し、彼はあくまでもラブホテルの中で、その人生を総括しようとした点だ。多くのラブホテルの客室にはー我々もよく知るようにー「窓」がない(必要とされていない)。「窓」は極めて隠喩的に述べれば、内部(=自分)と外界(=他者)を繋ぐものであると定義される。窓越しに外部を「まなざす」ことも、外部から室内を「まなざす」こともできるものだ。しかし、彼は、その窓がないー極めて内閉性のあるー空間で、殺人に至った。ここからは、一個人の考察に過ぎないが、2008年には不幸な形でなされた「K」の精一杯の自己表現すら、2021年には出来なくなっているのではないだろうか。それほど、我々は、知らず知らずのうちにーそう、まるでこの少年に高校時代「陰口」を言ったもののようにー排除しているのではないか。

4. おわりにー偶然性・アイロニー・連帯ー

 繰り返し述べるが、本論は決して19歳の少年の罪を免責するものではない。絶対的に罪は償われるべきである。その上でもなお、やはり、我々が彼ではなかったということは言えないはずであり、彼もまた我々ではなかったということも言えないはずだ。補助線を引こう。Rorty[1989=2000]は、国家、民族等々、「われわれ」意識を形作るものは絶えず「偶然性」がつきまとうものであると定義した。その上で、それらの「偶然性」を「アイロニカル」に、「あえて」受容していくこと、それこそが社会に「連帯」を作り出すものであると主張した。この事件は、メディア界隈において、少年犯罪の実名報道の是非について語られることが多いように伺える。[3] しかし、本当に必要なことは、その偶有性(=他でもあり得た)を耐えず意識し連帯することこそが、我々の社会に、このような痛ましい事件を2度と生じさせない唯一の手段であると執拗に、問いかけることではないだろうか。

注釈

[1]ここで用いた「道徳」と「倫理」の区別は永井[2011]に由来する。永井は、「道徳」を何時如何なる時にも守るべき規範・規律としたのに対し、「倫理」を文脈によって可変的であり、不道徳にも関わらず、倫理的である場合もあるという。本事件の場合は道徳的では明らかにない。但し、倫理的”ではない”という判断は下すことはできないという意味で以上のように述べた。

[2]「ホテル死傷「風俗業いなくていい」逮捕の少年、凶器は昨年購入」 2021-06-03, 産経新聞 , https://www.sankei.com/article/20210603-LAPK2JFI4BP5TO7CNEZWRLG3L4/(参照2021-06-06)

[3]実名報道の点に関して、被害者側の女性の実名が報じられたことに関しては考えなければならないだろう。なぜ被害者側のプライバシーは保護されないのかだろうか。施策として、マスコミ側が実名で報道することを決定するのではなく、遺族に実名で報道する権利を委ねることはできないのだろうか。

参考文献

永井均 2011 『倫理とは何かー猫のアインジヒトの挑戦』, 筑摩書房
見田宗介 2008 『まなざしの地獄』, 河出書房新社
大澤真幸(編) 2008 『アキハバラ発ー<00年代>への問い』, 岩波書店
Rorty. R 1989 Contingency, Irony, and Solidarity. Cambridge: Cambridge University Press = 2000 齋藤純一, 山岡龍一, 大川正彦訳, 『偶然性・アイロニー・連帯ーリベラル・ユートピアの可能性』, 岩波書店



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