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老子とビートルズと私

1. はじめに 

 先日、今年の8月に出版された比較文学者の四方田犬彦氏の新著、『愚行の賦』を読んだ。これは、フロベールやドストエフスキー、ニーチェ、谷崎潤一郎の著作を通して、通時的・共時的に蔓延している「愚行」について考察を試みたものだ。

 この本の個別具体的な考察はまた別の機会にしようと思うが、この本文の中で引用されていた『老子』の中の一節にとても胸打たれた。そこで、今回はそれを紹介すると共に、さらにそれについて考察しようと思う。

2. 老子と『老子』について

 老子とは、作品の名前であり、人物名でもある。彼は紀元前8〜5世紀の中国における春秋時代に人々を啓蒙し回った諸子百家の内の1人だ。高校の世界史や倫理、あるいは漢文でも登場するのでご存知の方も多いと思われるが、別の諸子百家、荘子と共に、宇宙全般の根源的・普遍的法則である「道(タオ)」を最重要視した「老荘思想」と呼ばれる思想が代表的だ。これが道教に通じていくとされている。(ちなみに日本の端午の節句や子どもの日は道教が由来だ。)しかし実際に老子が実在したかどうかの真偽の程は定かではなく、恐らく僕も先に中国土着の教えや思想がバラバラの形で存在し、それを「老子」という架空の人物にまとめあげることで思想体系として統一したのではないかと思う。その老子が書いたのが『老子(=老子道徳経)』だ。さて、早速その中の胸打たれた二十章を以下に引用する。   

第二十章 異俗
絶學無憂。唯之與阿、相去幾何。善之與惡、相去何若。

学問をやめてしまえば人生に屈託もなし。ハイと答えるのとアアと返事するのと、どれほどの違いがあるというのだ。
人之所畏、不可不畏、荒兮其未央哉。
善と悪とにどのような違いがあるというのだ。人さまの畏(はば)かることは畏からぬわけにはゆかぬ。それ以上のあげつらいは、茫漠、ああ際限(きり)がない。
衆人煕煕、如享太牢、如春登臺。我獨怕兮其未兆、如孾兒之未孩。
人は浮き浮きとして、まるで大盤ふるまいを受ける招待客、春の日に高台に登った物見客のようだ。だが、わたしだけはひっそりとして心動く気配もなく、まだ笑うことを知らぬ嬰児(みどりご)のようだ。
儽儽兮若無所歸。衆人皆有餘、而我獨若遺。
しょんぼりとしおたれて宿なし犬もいいところ。人々はみな裕福なのに、わたしだけは貧乏くさい。
我愚人之心也哉、沌沌兮。
愚か者のの心だよ、わたしの心は。のろのろと間が抜けていて。
俗人昭昭、我獨昏昏。俗人察察、我獨悶悶。澹兮其若海、飂兮若無止。
世間の人間はハキハキしているのに、わたしだけはうすぼんやりで、世間の人間は明快に割り切ってゆくのに、わたしだけはグズグズとふんぎりがつかない。ゆらゆらとして海のようにたゆたい、ヒューッと吹きすぎる風のようにあてどない。
衆人皆有以、而我獨頑似鄙。
人々はみな有能なのに、わたしだけは頑(おろ)かで野暮くさい。
我獨異於人、而貴食母。
わたしだけが変わり者で、乳母なる”道”をじっと大切にしている。

(上段強調文は原文、訳文は福永光司より引用、
『老子―中国古典選』 1977, 朝日新聞社)

 知ることや学ぶことは、なんと孤独なことなのだろうか!哲学者千葉雅也は『勉強の哲学』の中で、勉強をすると言語や思想等の「環境コード」が周りの人間と合わなくなるため、いわゆる”ノリ”が悪い人間になってしまうと説いた。千葉はそれでも勉強をし続ければ「来たるべきバカ」になれるとさらに続けるが、詳細は本書に譲りたい。

 老子は孤独だ。自分を「愚か」であるとも感じている。それは単に彼が返事の「はい」と「うん」の違いを永遠に考えていたからであり、「善」と「悪」の違いを永遠に考えていたからである。世間の人物は誰もそんなことを考えはしないのだ。だから世間の人より考えることは「愚か」である。ニーチェは自伝、『この人を見よ』内の一章「なぜ私はかくも賢明なのか」を書き上げた後、狂人になった。真の意味での「賢さ」と「愚かさ」はもしかするとかなり近似値をとるのかもしれない。

 かくいう僕もーもちろん老子程でもないし、なんならこれは唯の厨二病なのかも知れないが、それを踏まえた上でー人よりも考えすぎてしまうところがある。だから、具体的には述べないが「環境コード」が合わないな、と思ってしまった/思われてしまったことも何度かあるし、実際ある悩みに対して、根源的なところばかりを考えていて、全くそれに対して取り組めない、といったことがある。世間一般では「とにかく行動する!」ことが第一前提になっていて、老子の言葉を借りれば、「世間の人間は明快に割り切ってゆく」のに、僕だけはいつも「グズグズとふんぎりがつかない」。

 もちろん、僕は前々回のnoteでも書いたように、「生きなければならないように生きる」だけであり、一種の”あきらめ”の上で、僕を運営しようと思っているので、それはそれで構わないし、自分のことは一応好きなつもりだ。

 それでも、何となく孤独になったり、不安になったりするときがある。そんな時、一曲の歌と、その曲について書かれた一つのエッセイがいつも僕を応援してくれる。

3. 「ひとりぼっちのあいつ」

 その一曲の歌は、もちろんもう紹介はしなくても良い程有名なのだろうが、ビートルズの「Nowhere man」という曲である。これはビートルズが1965年に出したアルバム、『Rubber Soul(ラバー・ソウル)』に収録されている曲だ。4人の顔を下から覗き込むようなジャケット写真が印象的だ。とにかく僕はこの曲が好きで、実は東京FMの番組で実際にスタジオまで行って、どこが良いかを話して、リクエストしたこともある。

 この歌の題名は「Nowhere man」なので、直訳すれば「どこにもいないひと」だ。でも邦題は「ひとりぼっちのあいつ」だ。クレジットはジョン+ポールになっているが実際はジョンが1人で作詞作曲したということらしい。この曲の歌詞は、とてもアレゴリックでユーモラスなのだが、同時にそこはかとない哀しみが滲み出ている。とにかく何をやっても上手くいかない男が出てくる。彼は何の見通しもない。だからどこへ行くのかもわかららないし、それから彼には居場所がない、おまけにいつも妄想ばかりだ。誰のためにもならない、役にも立たない計画ばかり立てている。こんなやつは最悪だと思うし、絶対になりたくないと思う。

 でも、ジョン・レノンはその後に、こう歌う。

Isn't he a bit like you and me?
そういう人ってちょっとばかり君や僕に似ていません?

 確かにそうだ。いや、恐らく、春秋時代に老子に聞かせたら、老子にも刺さったに違いない。(老子がビートルズを聞く絵を想像すると笑えてくる。)

 さて、村上春樹のエッセイ集『雑文集』の中で、彼は、この曲について以下のように書いている。

何をやってもうまくいかない。どれだけ頭をひねっても、良い考えは浮かんでこない。どっちに進んでいけばいいのかもわからない。自分がからっぽにみたいに思える。そういう時期はたぶん誰の人生にも、多かれ少なかれあるにではないだろうか。ジョン・レノンの人生にもそういう時期があった。僕の人生だってもちろん何度かあった。二十歳前後の日々がとりわけそうだった。
(村上春樹『雑文集』 2011, 新潮社, p.227)

 だから村上春樹は、先の歌詞「Isn't he a bit like you and me?」とレノンに問われたのち、こう答えている。

ほんとうにそうだよな、と僕も思う。でも、ジョン・レノンさんにそう語りかけられると、なんかちょっとほっとしませんか?
(ibid.)

 だから僕は思う。ジョン・レノンにも自分がそういう時期があった。そして、村上春樹にもそういう時期があった。そして、老子にもそういう時期(生涯かけてなのかもしれないが)があった。だから、僕にもあるのが当たり前だ。老子とビートルズと村上春樹と私。並べてみて恐れ多いメンバーだが、ちょっぴり元気が出てきたので、今日はこれで終わりにしようと思う。これが本当の「雑文」だ。



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