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『千と千尋の神隠し』試論ー欲望・アイデンティティ・資本主義ー

1. はじめに 

 2001年に公開され、記録的な大ヒット作品となった宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』を多くの人は観たことがあるのではないか。それでは一体この映画は何を我々に伝えようとしているのだろうか、という問いについての答え(もちろん作品であるため解釈は人それぞれではあるが)を明快に答えられる人はそう多くないのではないか。それ程、この作品は難解である。その難解さの理由の一つにテーマの多様性が挙げられる。例えば湯屋の客人である神からは日本人の宗教観が、風呂屋に来た腐れ神風の名のある神からは環境問題が、伺える。そのため、今回は特に『千と千尋の神隠し』で主要テーマになっていると思われる、「アイデンティティ」と「欲望/資本主義」に論旨を限って進めたい。なぜ「アイデンティティ」と「欲望/資本主義」なのか。これは論を読み進めれば自ずと分かってくるが、この両者はどちらも我々の生活に馴染みの深く、そして同時にここからは逃れられないものだからである。今はこの辺に論を留めておこう。それでは次章以降、これを考察する。

2. 「カオナシ」とは誰か 

 この作品の主要登場人物は、もちろん千尋やハクであるが、カオナシも当然そうである。カオナシは不気味な存在だ。まず喋れない。そして他者を飲み込んで声を手にする。また、いくらでも金(偽物だが)を手から出せ、暴食を重ね醜い姿になっていく。しかし、物語が進んでもカオナシが誰であるのか、なんの目的があったのかという問いは解消されずに物語は終わる。最も謎な登場人物と言えるだろう。一体カオナシは誰で、何の目的があったのだろうか。結論を先行すると、このように考えることが出来る。カオナシは千尋の偶有的存在(そうでありえたかもしれない存在)である、と。順を追って説明していくが、まずこれを理解するにあたって一度迂回し、「千尋」とはどのような存在か、という問いを理解する必要があるだろう。 

 映画の鑑賞者は、千尋が転校してきたということを知らされるシーンから『千と千尋の神隠し』が始まっていくことを知っている。千尋はその転校について良く思っていないことも劇中の様子から伺えるだろう。子どもにとって学校とは、職場や趣味の場など、複数の場を所有する大人と違い、家庭以外の環境の全てであると言えるだろう。これが変わるということは大変なストレスになる/なりうるというのは容易に想像が付く。そして千尋にとっては学校以外の家庭はどのような場だろうか。序盤のシーンを見る限り、千尋の親は千尋に対して冷たい。千尋の話を真摯に聞こうとはしていない。千尋がトンネル内でその恐怖から母の腕を掴むのだが、そこに対しても千尋の母は煙たがっていることが伺える。するとこのように言える。千尋は自分にとって根を降ろせる場所(トポス)がどこにも無い状態なのだ。「わたしが<わたし>でいることの証明」を「アイデンティティ」と言うが、千尋は自分が自分でいられる場所がない/あっても非常に薄い、アイデンティティが欠如した(アイデンティティ・クライシス)状態であると言える。そしてさらにそこに追い討ちをかけるようにして湯婆婆に名前を奪われる。ここで「名前」に着目したい。「名前」は<わたし>を表す最も端的なシニフィアン(記号)であり、それは生まれてから死ぬまで所有する最大のアイデンティティと言える。しかしそれにも関わらず、自ら決めることができないものが名前だ。親によって、言わば超受動的に付与されるものなのである。しかしそれでも名前はこの<わたし>を指し示すアイデンティティになる。ここに名前の逆説的な機能が生じるのだ。話を戻そう。千尋は物語の序盤、その名前をも奪われたアイデンティティのない、状態として鑑賞者に受け取られるのだ。

  さて、話を目下の疑問、カオナシが千尋の偶有的存在(そうでありえたかもしれない存在)であることの証明が今や出来る。カオナシは、その文字通り「顔が無い」存在だ。顔は人としてのアイデンティティたり得ることを解いたのはイマニュエル=レヴィナス(『全体性と無限』,1961=2005)だが、形而上の話をしなくても、我々は普段の生活でその人が誰であるのかということを決めるアイデンティティ決定の手段の一つとして「顔」を見ていることは殊更論うまでもないだろう。その「顔」のないカオナシは端的に言えば、アイデンティティを持たない存在であると言える。また「カオナシ」は本名ではない。実は作中では一度もその名は呼ばれていないのだ。さらに千尋から家族のことを聞かれた際もカオナシは口ごもる。すなわち、カオナシも千尋同様、名前やトポスの無い存在であることがわかる。さて、これで目下の疑問、カオナシとは千尋の偶有的存在である、というテーゼの意味がわかったのではないか。千尋とカオナシはアイデンティティのなさ/希薄さということにおいて共約可能な存在なのである。しかし疑問は残る。それではなぜ、カオナシは千尋に、千尋はカオナシにならなかったのか、と。これを次章で見る。

3. 「薬湯の札」と「金」という貨幣 

 この章では先の疑問、なぜ、カオナシは千尋に、千尋はカオナシにならなかったのかという問いを引き継ぐ。先に答えを述べるが、その答えは簡単である。なぜ千尋が醜い化物、カオナシにならなかったか、それは千尋が「アイデンティティ」を獲得したからだ。先に私は「アイデンティティ」を「わたしが<わたし>でいることの証明」であると定義した。しかしこれはどのようにして手に入れるものなのであろうか。これにも先に考察した名前の例が役立つ。名前はこの<わたし>を示す記号であり、最大の「アイデンティティ」であるのと同時にそれは自ら獲得するものではない。ここに「アイデンティティ」に対する最大のヒントが隠されている。そう、アイデンティティとは自ら獲得することや確立することは不可能なのだ。他者によって一種の偶然に、無作為に付与されるもの、それが「アイデンティティ」である。考えてみれば戦後最大の政治学者丸山眞男(『日本の思想』, 1961)も言うように、人間はその産まれすら英語では“was born”と受け身を用いて表現することしか出来ない、受動的な存在なのだ。 

 それでは千尋は具体的にどのようにしてアイデンティティを獲得したのだろうか。それはハクや鎌爺、リン、銭婆婆との交流によって、である。その前に彼らの暮らす世界について一通りの考察をしよう。千尋が迷いこんだ湯屋の世界は非常に不思議な世界だ。そこは湯婆婆が作り出した世界とされているが、そこでキーになってくる概念は「契約」である。作中も鎌爺が湯婆婆に生を吹き込まれた煤に対して「契約」を語るシーンがあったり、ハクと湯婆婆の間で何らかの「契約」が結ばれた旨や、何よりも千尋が働く際に「契約」書にサインするシーンは印象的だろう。このように湯婆婆の世界では、「契約」概念が大変重要視されていることがわかる。「契約」の概念に対して、ここで長く語ることはしないが、一言で語ればそれは「決定されたルールを遵守しそれ以外は意味のない/あるいは不利益になるためしない約束」であると言える。そのため、これは合理性や効率性と大変相性が良い。(余談だがヨーロッパではユダヤ・キリスト教における神との旧約・新約概念が古くから結びついていたため合理性・効率性と親和性があり、産業革命等の資本主義に結び付いたのではないか。)合理性・効率性を重んじると人はそれ以外の言わば無駄なこと、自らの契約外のことはしなくなる。しかし、先に挙げた千尋の面倒を見てくれたハクや鎌爺、リン、銭婆婆は違う。そのような合理性・効率性が支配する世界においても、千尋に対して、自らの損得感情を度外視し千尋と付き合う。千尋は彼らによって何度も「助けられる」(受動表現であることに注意されたい!)のである。千尋は彼らに受動的に支えられることにより、成長し、アイデンティティ獲得するのだ。 

 一方カオナシは、最初こそ千尋に「招き入れられた」。(こちらも受動表現であることに注意されたい!)だからこそカオナシは千尋を自らのアイデンティティを付与してくれる存在として求める。そこで劇中で①薬湯の札と、②金を自ら作り出し、好まれようとするのだが、どうやら千尋はそれを欲しておらず、拒否され、暴れ回る。しかしなぜカオナシは①薬湯の札と②金を千尋に提供しようとするのか。それはどちらも湯屋の世界では価値のあるものであり、人々から必要とされるものだからである。まず薬湯の札だが、これは決してこれ自体は何にも使えない。この札を鎌爺に提示することで高価な薬湯それ自体が提供されるのだ。次に金だが、これも金自体は何にも使えない。金は価値の尺度としてのみ、長い間その地位を保ち続けてきたのだ。(金のアクセサリーや装飾品は使用価値のない金を使うからこそ倒錯的に交換価値が出るのであって、金自体には使用価値はないということをここで示しておく。)これら両者は交換の媒介にしかその用途を生かすことは出来ない、それ自体では無価値なものである。するとこの①薬湯の札と②金は我々が良く知るものの形態に近いのではないか。そう、貨幣である。①はその交換物を薬湯だけでなく全ての商品に展開すれば、すぐさま貨幣たり得るし、実際に②金は1971年の金=ドル交換停止(ニクソン・ショック)に至るまで金とは貨幣であったのだ。このように、カオナシはアイデンティティの無い存在であるのと同時に、無限に欲望を無限に噴出する存在であると言える。さて、資本主義は成長することでしか維持し得ないシステムであることはマルクスが証明(資本の循環)しているが(『資本論 第1巻』, 1867=1969)、これはその成長を助けるために無限の「欲望」を作り出さねばならないシステムであることも、例えばボードリヤール(『消費社会の神話と構造』1995=2015)や佐伯(『欲望と資本主義ー終わりなき拡張の理論』, 1993)によって提唱されている。すると、カオナシこそ無限に成長し、人々の欲望を煽る資本主義を体現した存在であると言えないだろうか。この資本主義が合理性・効率性と親和性があるのは先にも述べたが、すると、千尋がこのカオナシの戦略にはまらなかった理由も見えてくる。千尋とその周りの存在こそ、合理性・効率性に重きを置かない存在だからである。しかし、そのカオナシも物語の終盤、銭婆婆に「手伝いをして欲しい」と他者に必要とされる。これを以てカオナシはアイデンティティを獲得し得たと言えるだろう。

4. 終わりに 

 幾分と回り道をしたが、最後に身近な例を一つ挙げてみたい。ネットショッピングで買い物をすると、おすすめ欄に自分が正にこれが欲しかったと思えるような商品が出てきた経験をしたことはないだろうか。さらに言えば、そのサイトで買い物をすればするほどそのような経験は多発する。それはコンピューターがオンライン上で自分の好みを割り出し、近似したものを提供するからに他ならない。しかし、同時にそのようにしておすすめされた、寧ろ自分のことを自分よりもわかっていると思わせるような欲望を作り出すシステムを前にして、一体本当の<わたし>の欲しいものとは何であったのかという感覚に陥ることはないだろうか。これこそ「欲望」を作り出した結果のアイデンティティの危機に他ならない。カオナシとはそのような存在の極限にいる存在であり、それは極めて現代を生きる我々に近いと言えるのではないだろうか。千尋やハク、鎌爺的態度で人や社会と接することは如何にして可能だろうか。

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