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『推し、燃ゆ』と現代日本における宗教の不在、生きづらさについて

1. はじめに

 先日、昨今話題になっている第146回芥川賞受賞作品である宇佐見りん氏の『推し、燃ゆ』を読んだ。最近、『花束みたいな恋をした』についての記事を書いたが、思ったよりも伸び(?)、多くの人に見てもらったので、もはや自分の書きたいことではなく世間の流れに迎合することにした僕は、今回は『推し、燃ゆ』について書こうと思う。(嘘です。とても面白かったので僕が書きたくて書きます。笑)

 僕がこの小説を読んで思ったことは、正しくこの小説の帯に記載されていたロシア文学者の亀山郁夫のコメントに代表される。それは「ドストエフスキーが20代半ばで書いた初期作品のハチャメチャさとも重なり合う」というものだ。確かに僕もこの小説を読んでドストエフスキーを思い出さずにはいられなかった。今でこそ僕は「生まれる時代を間違えたニューアカ男」だと感じているが、元々僕を人文知の世界に導いてくれたのは文学の世界であった。そこで、今回は、『推し、燃ゆ』について、語っていこうと思う。

2. ドストエフスキー作品を貫く「神の不在」問題

 僕は大家ドストエフスキーの問題意識を、章のタイトルにもあるように、「神の不在」についてであると感じている。もはや彼の生きていた19世紀のロシアには神がいない。「神不在のロシア/ロシア人」を彼は繰り返し描いてきた。例えば『罪と罰』では、規範や規則を担保している「神」がいなくなったロシアにおいて、誰が裁ける/罰を与えられるのか、という問題。あるいは『カラマーゾフの兄弟』では大変有名な大審問官の長い独白シーンでは「パン」「奇蹟」「権威」という歴史上のイエスがとった方針を問い直す。ロシアにはもはや「沈黙するキリスト」しかいないという問題だ。『白痴』では、そのロシアにキリストが回帰したらどうなるのか、という問いを描く。

 とにかく、ドストエフスキーは執拗なまでに「不在の神」について扱ってきた。そして、僕はこう考える。宇佐見はドストエフスキーの問いを、現代日本版にしてアレンジしている、と。

3. 「神不在の日本/日本人」と回帰してきた「真幸くん」

 先の章で、僕は宇佐見が『推し、燃ゆ』の中で問いたかった主題はドストエフスキーがそうしたものと同様であるというふうに述べた。どういうことか。主人公あかりは”推し”である真幸くんを推すことだけが生きがいだ。その”推し”を推すシーンは、しばしば我々に宗教チックなものを思い起こさせる。例えばあかりによる真幸くんのあらゆる発言の解釈はユダヤ教の口伝律法を思い出さずにはいられない。あかり自身がラビであり、解釈し、「タルムード(=ブログ)」を編纂していく作業だ。また、あかりの部屋についての記述シーンでは、正しく「教会の十字架とか、お寺のご本尊のあるところとかみたいに棚のいちばん高いところに推しのサイン入りの大きな写真が飾られて」(p.37)いる。あるいは、推しの誕生日にケーキをホールで丸ごと食べて戻したり、ブログをストイックに書き続ける姿は我々にどこか宗教的・禁欲的な「務め」や「修行」を思い出させる。

 しかし、それでは実際の宗教が、特に現代日本に存在しているかというと、どうだろう。今の日本には「葬式仏教」と、”カルト”と一般的に称されるような宗教しか存在しないのではないか。人間はどんなに高度に発展した社会を築いてもなお、人知を超えた死の分野や、突如降りかかる災害や病など説明不可能なものを前にした時に、「宗教(=自分の実存的不安を埋め合わせる大きな物語)」を必要とする生き物だ。しかし、現代日本にはそれがない。

 例えば僕は、作中で「神の不在」が如実に現れているシーンの代表として、あかりの姉が受験勉強中に自分ばかりが頑張り、あかりはただ「推し活」をしているだけだ、というふうに不満を漏らすシーンで、あることを思い出した。それは、新訳聖書ルカ福音書10:38〜42「マルタとマリヤ」という箇所だ。以下に引用する。

さてみなが旅行をつづけるうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が家にお迎えした。マルタにマリヤという姉妹があった。マリヤは主の足もとに坐ってお話を聞いていた。するといろいろな御馳走の準備で天手古舞をしていたマルタは、すすみ寄って言った、「主よ、姉妹がわたしだけに御馳走のことをさせているのを、黙って御覧になっているのですか。手伝うように言いつけてください。」主が答えられた、「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を配り、心をつかっているが、無くてならないものはただ一つである。マリヤは善い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
塚本虎二訳 1963『新訳聖書 福音書』,岩波文庫, p216-217

 姉(=マルタ)は問う。私ばかりが受験勉強(=御馳走の準備)をしていて、あかり(=マリヤ)は推し活(=主の話を聞く)だけではないか、と。これでは不公平である、と。主は言う。いや、違うのだ、と。マルタのその人を妬む気持ちや羨む気持ちが間違いである、と。極めて不公平に思えるが、これほどまでにキリスト教精神に根付いた話はないだろう。もし、『推し、燃ゆ』のこの作中に、イエスがいればこう答えるはずだ。姉こそ間違いである、あかりこそ善い方を選んだのだ、それを取り上げてはならないのだ、と。しかし、現代日本にイエスがいるはずもなく、あかりはこのシーンでまた自分の暮らす「世界」に違和感を感じる。

 だからこそ、あかりにとっては真幸くんが居なくなった「キリスト」あるいは「超越者」として現れている。彼女の規範や規律、生きがいを担保する存在としての真幸くんに絶対的に帰依する行為、それがあかりの”推す”という活動だ。しかし、それではなぜ彼女はこれ程まで真幸くんを推すのか。

4. 発達障害と「医療化」論

 あかりがなぜこんなにも真幸くんを推すのか。これはかなり特殊的な話に見えるが実はそうではない。高度に発展した現代日本(あるいは後期資本主義社会)における普遍的な”生きづらさ”の問題だと、僕は考える。あかりはー作中に多くの登場人物から指摘されたようにー現実から目を背けるために真幸くんを”推し”ていたのではないと思う。そうではなく、寧ろ、現実に過剰に適応しているが為に、真幸くんを”推し”ているのだ。どういうことか。以下で説明する。

 まず、あかりは、恐らく、作中で「発達障害」と診断されている。そして実際、彼女が繰り返す物忘れや不注意、コミュニケーションにおける異和は発達障害に代表される症状だ。しかしこれは時代の病だ(と僕自身は考えている)。イリイチは『脱病院化社会―医療の限界』の中で、これまで医療分野に包括されていなかった諸々の症状が医療分野に包括され、「病」に認定され、「治療」対象になることで社会における医療の権威が上昇していく現象を「医療化」と名付け批判した。

 器用に物事をこなしていけない人、どうしても生じる不注意や、「コミュ力(と、この社会では呼ばれている)」や「社会性」のない人は、特に効率や合理性を可能な限り追求する後期資本主義社会を円滑に運営するためには大変「迷惑」な存在であるため、「病気」ということにしてしまおう、そうすればオフィシャルな形で排除できる。無論以上のようなことは誰も表立って言わない、が、しかし、そのような流れになっていると僕は考えている。(一方で病名が付与されることによる当事者の”生きやすさ”も同時に存在しているため、発達障害という病を批判しているのではないことは明記しておく。僕が問題視したいのは、発達障害を作り出さざるをえない社会の方だ。以上のことについて詳しくは立岩真也『自閉症連続体の時代』が大変参考になる。)

 あかりは、一方で自らについた病名を免責のロジックとして用い、もう一方でそれを免責のロジックとして使うことに違和感を覚えている。あかりの父親があかりに就活を強いるシーンであかりは父親に対してこう述べる。

「働け、働けって。できないんだよ。病院で言われたの知らないの。あたし普通じゃないんだよ」
「またそのせいにするんだ」
「せいじゃなくて、せいとかじゃ、ないんだけど」(p. 91-92より)

 これは一見矛盾しているように思えるが、そういうわけではない。あかりなりに一生懸命やったものの、残りの部分は病気に原因があると言っている。それは極めて受動的なものだ。しかし、父親はそれをあかりが積極的に、あるいは能動的に病の「せい」にしていると信じて止まない。この2人、あるいはあかりと「一般社会でそつなくこなせる人々」の認識のズレこそが、あかりを”生きづらく”させているものだ。そしてそのズレは、あかりが社会に適応すればするほど周りとの認識が異なり、大きくなっていく。「神がいた時代」には神がズレを埋めてくれた。しかし、ドストエフスキーが扱ったように、もはや自らの実存的不安を解決してくれる大きな物語がない時代には、そのズレは病として扱われるしかない。「病」は実存的不安まで解決してくれるものではない。それはあくまでも、「社会」がより円滑に自らを運営するために作り出したものだからだ。だからこそ、あかりは自分自身の「神」である真幸くんを推すのだ。

5. おわりにー誰もがあかりであることー

 僕は別にアイドルを今まで推したことは、ない。しかし、自分は、あかりのような「注意散漫」な性質や「コミュ力」や「社会性」のない人間ではない、とは言い切れない。時には不注意故の大失敗を冒すこともあるし、人間関係も面倒くさくなることもある。だから、僕が、あかりのように”生きづらさ”を抱える側の人間であってもなんらおかしくないのだ。というよりも、今まで以上に効率や合理化が押し進められれば、今までは「発達障害」と診断されなかった人々が「発達障害」と診断されるだろう。そもそも発達障害を含む自閉症は「スペクトラム(=連続体)」だ。社会が恣意的にその線を引いているに過ぎない。

 その時に、我々は「病名」だけを抱え、丸裸になるだろう。「神不在の日本/日本人」は、1億総発達障害社会になったときに一体誰を”推す”のだろうか。


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