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自分のみじめさを持って帰るー深田晃司『LOVE LIFE』

苦しみや悲しみという「みじめさ」の中で人は他者を求める。単なる「必要」は「利害」で人を結びつけるが、「みじめさ」は同情でも羨望でもなく、「愛情」によって人を結びつける

ルソー『エミール』

  ボードゲームの中で、オセロほど悲しいものはない。なぜならオセロは、やり直しが効かないからだ。一度打った石は、相手が挟んで色が変わらない限り、ずっとそのまま放置されている。そしてさらにーこれは僕がオセロが弱いことが原因かもしれないがー負けている時のオセロほど惨めなものはない。目に見えてはっきりと、盤面が一色に染まっていく。しかし、終盤になると概ね大逆転も起きず、コールドもなく、ただただ、全てのマスを埋めるまで自分が負けることを宣告され続けるのだ。

 でも、オセロはまだいい。なぜなら負けたとしても、次のゲームをすればいいだけだからだ。では、人生は?自分の人生が途中から惨めなことに気付いても、戻ることはできない。人生は1ゲームのみだ。既に負けることがわかっていてもゲーム終了するまでーそれはすなわち死ぬまでー負けを宣告されながら、生きていかなればならない。

 なぜ僕は突然オセロの話を始めているのか。それは深田晃司監督の映画、『LOVE LIFE』を観たからだ。主人公の妙子は、元夫でろう者のパクとの連れ子敬太と、現在の夫二郎と3人で、集合住宅の一室で生活を営んでいた。向かいの棟に住む義父母は、妙子と二郎との関係をよく思っていない。息子敬太は天才オセロ少年。大会で優勝した記念にホームパーティーを開くが、その最中に事故で敬太は亡くなってしまう。悲しみに暮れる妙子の元へ、失踪していた元夫のパクが突如現れ、妙子の傷は癒やされていく。時を同じくして現夫二郎も、妻妙子との息子の死をきっかけに生まれた関係の溝から、元恋人へ接近する。関係が崩壊するように思えた夫婦は、しかし、それぞれの「みじめさ」を確認し、再度2人の生活へ戻っていく。

 敬太が生きていればよかった。子どもには関係を繋ぐ力がある。僕は今、名古屋の外れのデニーズで、日曜日の昼に、1人で(そうたった1人で!)このnoteを書いている。PCのスクリーンから目を外せば、そこにたくさんの子どもと、親が見える。もちろん彼らだって、全ての家族関係が上手くいっている訳ではないだろう。もしかすると、隣にいる家族の子どもは連れ子かもしれないし、前の席で唐揚げを頬張っている少女は、夫婦が望んで産まれてきた訳ではないかもしれない。しかし、それでも彼らは、この9月の休日の、少し涼しくなってきた名古屋の外れのデニーズで一緒にご飯を食べている。それは、子どもがいるからだ。なぜか。子どもは、もちろんまだ産まれていない子どもも含めて、<未来の他者>だからだ。僕たちは、いずれ死ぬ。しかしその後に、子どもは生き残る。その彼らへの、いずれ死にゆく者からの責任として、我々は、子どもを中心に関係を作らざるを得ない。だから、『LOVE LIFE』でも、敬太が生きていればよかったのだ。実際、ホームパーティは、上手くいっていた。敬太は近いうちに義父の承認を経て、養子になっていただろう。しかし、<未来の他者>であった敬太は、彼の自宅の風呂で、一瞬のうちに死者=<過去の他者>へ反転する。<過去の他者>には関係を繋ぐ力はないのか。いや、ある。それこそがこの映画の肝だ。

 僕は、ある意味この映画はホラームービーでもあると思っている。なぜか。それは敬太が幽霊となって登場するからだ。この映画で鍵になるのはやはりパクだ。彼は不気味な存在である。かつて妙子の前から突如失踪していた彼は、敬太の葬式に、おおよそ式場にふさわしくない格好で現れる。彼の難聴は先天的だったのだろう、言葉にならない言葉で、式場で大声をあげる。それは僕に、敬太がーそれはPCやデジタルサイネージのインターフェイス上の思い出に閉じ込められた敬太が(極めて2020年代的な問題だ!我々は今回のコロナウイルスを経て、インターフェイスに閉じ込められる存在になってしまった!)ー「不気味なもの(フロイト)」としてその身体性の部分を回帰してきた姿のように思わせた。パクは、映画前半でその存在は明かされているにも関わらず、ちょうど敬太と入れ替わる形で登場する。彼がフェリー乗船前に言った「敬太を忘れるな」という言葉は、あれは「自分を忘れないでくれ」という敬太からのメッセージだ。極め付けはーこれは少々わざとらしく感じたがーパクはわざわざシーツを被り、幽霊になることで、自身が幽霊であることを視覚的に明らかにしてしまう。もちろん、死者は自身の居場所へいつかは還らなければならない。彼はフェリーに乗ってーそれは僕に補陀落渡海の渡海船を思い出させるー帰国する。そこで妙子が感じた疎外感は、決して前夫の前妻の息子の結婚式という状況に起因するものではない。それは、そもそも敬太の居場所=死者の国と、妙子の居場所=現世が異なることから生じているより根源的な疎外感なのだ。

 ではその幽霊=<過去の他者>となった敬太=パクは、夫婦に何をもたらしたか。それは、「みじめさ」だ。二郎はみじめだ。彼は妙子と元夫との会話から二重にー韓国語ということ、手話ということー疎外される。妙子とパクの関係を疑い、元恋人にもそのような自身の心の弱さを見透かされてしまう。彼はいつか自身がそうしたように、妙子から捨てられそうになる。妙子もまた、みじめだ。彼女は、風呂場の水を抜き忘れたせいで息子を殺してしまったという自責の念に駆られる。夫の二郎の本心も分からない。その自分のみじめさを隠すようにパクの世話に駆られるが、それも結局無駄骨にすぎないことが最終的にわかる。その惨めさは消えない。時間は不可逆だからだ。彼らは互いがみじめであることを確認するために、1人になる。でもその惨めさをもう一度持って帰ってきた時、そこにまた2人の新しい日常が生まれる。そのことを<過去の他者>となった敬太は教えてくれたのだ。

 「1人で死ぬのが怖い」と二郎の母は言う。しかしそれは徹底的なエゴイズムでありニヒリズムだ。ジャンケレヴィッチが、「死には他者の顔が張り付いている」と述べた時、そこで意味されているのは、「死」を「死」と認める存在=他者がいなければ、そもそも「死」は「死」として存在しないということだ。だから、「1人で死ぬ」ということは原理的に不可能だ。ジャンケレヴィッチがなぜ死を3つの人称として示したか。それは死に他者が必要なことを論理的に示し、「人は1人で死ぬ」というニヒリズムを超克するためだ。そしてまた残された者から見ても、僕たちの「関係」には死が必要だ。渡辺哲夫が『死と狂気』で述べたことこそ、そのようなことに他ならない。死が存在しなければ狂気(=他者との関係の消滅)への道に繋がっていく。

 ラストシーンで夫婦は目を合わせる。散歩へ行こう、着替えてくる、何気ない日常の会話だ。しかし、夫婦が辿り着いた日常は今までのものとは違う。離陸した日常から別の<日常>への着陸。それは今までのものとは絶対的に違う。しかし、それもまた「LOVE LIFE」なのだ。名作。


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