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クリストファー・ノーラン『オッペンハイマー』、あるいは文学と政治の問題について

 最後にまとまった文章を書いてから、既に1年以上が経つ。僕はかつての僕の文体を、それなりにあったかもしれない明晰さを、忘却し続けている。本を読む時間は減り、考える時間はなく、ただただ毎日を”こなしている”。

 しかし、それは今は置いておこう。僕といえばここ最近、毎週のように映画館へ行き、週末の度に向き合わなければならない孤独を映画という数時間の物語で隠蔽している。そして今日もノーランの最新作、『オッペンハイマー』を観てきた。(実は先週も観たので、これで2回目になる。)そこで僕は、文学と政治、理論と実践について考えざるを得なかった。今日はそれについて、自由に書こうと思う。恐らく構成を意識し、知的さをアピールする文章を書くには、僕には時間も、余裕もない。ただただ、自由に書いてみよう、そう、リハビリテーションとして。

 まず初めに構図を整理してみたい。先にも書いたように、僕は以下のような対立軸に興味がある。

文学 ー 政治
理論 ー 実践
単独的 ー 複数的
運命的 ー 確率的
                      このわたし(only one)ー 大勢の中のひとり(one of them)

 左側の軸は、最後の行にもあるように、いつも「このわたし」から始まる問いなのだ。それはいつも個人的であり、単独的な問いであり続ける。一方、右側の軸は、本来ならばそのような個人が集積してできている社会を、組織を、国家を、ストレスなく運営するために敢えて左側の軸を隠蔽した結果生まれている。いつもその二軸は対立し、交わることがなく、我々の悩みの種となる。例えば、交通事故で子を無くした親について考えてみたい。警察はこういうだろう。「お子さんを亡くしたのは残念だ。昨今の子どもが巻き込まれる事故率は○%で、減少傾向にあるが、それでも事故を起こしてしまった。今後は、同じような状況下での事故を減らせるように対策を云々。」しかし、親はそんな説明を聞いても、絶対に納得するわけがない。親が問いかけているのは、「他でもないこのわたしのあの子どもが交通事故にあったのはなぜなのか?」という極めて私的で、単独的な問いなのだから。(同じような問いを、僕は以下でも考えた。)

そして今回の『オッペンハイマー』も、僕はこの二軸に引き付けて見てしまわざるを得なかった。

 キリアン・マーフィー演じるノーランのオッペンハイマーは、極めて文学的な人間だった。彼が物理学を専攻したのは、「なぜ他でもないこの宇宙は、このような宇宙なのか?」という問いに対して畏怖していたからに違いない。もちろんそれは彼がエリオットを読み、ドストエフスキーを読み、『バガヴァッド・ギーター』を読み、『資本論』を読んでいたのと全く同様の理由からなのだ。

 そして映画内の彼は2度にわたって敗北する。僕はこの映画は、文学的で、実験(実践)の苦手な「理論」物理学者の敗北の物語としてしか見れなかった。そして負けた相手は、もちろん彼を大勢の中のひとりとしてしか扱わない政治だ。まずはその2回にわたる失敗を考えよう。

 先に2度目から。それはもちろん、彼の反原水爆開発、反核兵器開発競争活動から端を発する公職追放事件だ。彼は喉に刺さった小骨のように残ってしまった自身のキャリアのある時期の共産主義への接近に、足元を掬われる。それは彼の生きた時代が悪かったとしかいいようのない失敗だろう。しかしここで立ち止まりたいのは、核兵器を開発したオッペンハイマー自身が、なぜ後に反核に転向するのか?という問題だ。彼の敗北を用意した政治家、ロバートダウニーJr. 扮するルイス・ストローズは、彼のその権力欲が問題だと思っている。しかし、これは違う。彼は権力などという、極めて政治的な問題には興味がないだろう。
 僕はここで、バークの「崇高」について考えている。バークによれば崇高とは、恐怖とのコインの裏表の関係にある。核分裂反応は、あまりにも崇高だ。しかし故にこそ、それは恐怖の感情も引き起こす。僕はーそれは政治的に極めて誤っているがーあまりオッペンハイマー自身がヒロシマ・ナガサキの犠牲者への良心の呵責に悩んでいたとは思わない。極めて個人的な物理学への関心と、その崇高さが、一挙に恐怖へと反転したことによる個人的な問題なのだ。(余談だが、この崇高と恐怖のネガーポジ関係は僕に量子力学の二重スリット実験を思い出させる。それは崇高と恐怖が同一のもののように、波でもあり粒子でもあるのだ。)

 では1度目の失敗はなんだったのか?僕はマンハッタン計画もまた、失敗したのだ、そして最も懸念していた連鎖反応(chain reaction)が起きてしまったのだ、と言いたい。いや、そんなことはない、マンハッタン計画は実践(実験)の苦手な彼が成功させた実績ではないか、という反論もあるだろう。しかし、これは明確な失敗だ。確かに、原爆実験であるトリニティ実験だけを取り上げれば、それは成功だ。そして理論的に裏打ちされているように、一つの爆発が次の爆発をうみ、さらに次の爆発を生むという連鎖反応も生じなかった。しかし、その原爆実験の成功は何を生んだのか?それが2度目の失敗の原因でもある、核開発の連鎖反応(chain reaction)ではないのか。また、彼がその成功で手にする名声で傷つけたストローズの個人的な憎悪の連鎖反応も招くことになる。21世紀を生きる我々は、その核開発の連鎖反応や、個人的な憎悪の問題が、冷戦から続く今日のウクライナ戦争やパレスチナ紛争に繋がり、今でも連鎖反応が終わっていないことをよく知っている。

 彼は政治に、実践に、負け続けた。それが僕はとても歯痒い。なぜなら僕もまた、政治が、実践が、極めて苦手だからだ。(恐らくそれはJTC企業に勤めるサラリーマンとして極めて致命的でもある。)オッペンハイマーの問題は、非常に矮小化、卑近化された形で、また僕の問題でもある。でも恐らく、東浩紀も言うように、本当の平和は「政治の欠如(=動物化(コジェーヴ))」としてしか訪れない。政治的な手段で平和は実現しない。この映画は既に、「唯一の被爆国である日本」がどう観るか、という政治的な問題に絡め取られた結果、公開が遅れ、現在もそのような観点でしか報道されていない。しかし、本当に重要なことは、平和は「このわたし」から始めるしかない、ということに皆が気づくことなのではないか。

(あまりにも駄文だが、このまま公開しようと思う。)


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