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「明治の精神」とはなんだったのかー夏目漱石『こころ』を読んでー

1. はじめに

 夏目漱石『こころ』は、彼の代表作でもあり、また、押し並べて高校生の際に読んでいる場合が多いので、国民の大半が読んでいる珍しい文学作品なのではないだろうか。しかし、僕自身、これといって高校生の頃に『こころ』を読んで、「わかった」気になったわけではない。当時の僕は、一つの罪を背負って生きる先生が、あまりにも可哀想であったことを同情している。人間のどうしようもないエゴイズムと、そこに絡まる恋路を、僕は自身の人生を振り返り、先生に同情していたのだ。例えば、17歳のの僕が書いた『こころ』の感想文は以下のように書かれている。

 “ある種の”エゴイズムから来た人の過ちというのは人を(もしくは人のこころを)永遠に損ない、また過ちを犯した人は永遠にその罪悪感に縛られながら生きていくしかないのだ、ということを学んだ。「こころ」を読んだ際にも同じことを感じる。先生はKに対する罪悪感という図りしれない重荷を背負って、生きてきた。
 愛は、もしくは恋は神聖であるにも関わらず、愛を、もしくは恋を扱う人間は時にひどく卑しくなることもある。このある種のパラドックスこそ、「こころ」で扱われた本題であるとおもう。先生は1人の人間の“死”の決意を受け取ったこと、これはある意味幸せである気がするが、この秘密を抱え込まなくてはならないという危険も秘めている。この本を17歳という、大人でも子どもでもない中途半端な―そう思いませんか?―年代で読む意義は“ある種の”過ちを犯さないように大人になる前にフィクションで練習することなのかな、と感じた。

 まず文体からして読みにくい。今の僕ならこのようには書かないだろう。しかし当時高校生であった僕はこのように書くしかなかったのだ。同じテキストを読んでいるのにも関わらず、である。『こころ』のテキストは一言一句変わらないままそこにある。しかし、読む「この私」が変わった。すると、そのテキストは、まるで迷子の旅人が自身の位置を把握するために見つけた北極星のように、現在の自分を位置を照らすだろう。

 さて、それでは今のー22歳になったー僕は、『こころ』を如何に読むのだろうか。僕は徹底的に、先生を批判したい。その上で、今回は、以下の2点に絞って論じたい。それは①先生はなぜKを(お嬢さんの母からあまりよく思われていないも関わらず)招き入れたのか、ということ②先生を自死せしめた「明治の精神」とはなんであったのか、ということである。

2. 欲望することを欲望する近代人

 さて、我々がまず考えたいのは、「先生はなぜKを下宿先に招き入れたのか」という問いである。一見この小説をベタに読めば、その理由はいたって簡単である。Kは、養家から医者になるという約束で、東京の大学に在籍しているにも関わらず、自身の「精神と肉体を離したがる癖」(p233) のせいで、哲学や宗教ばかり学び、勘当されたのである。そこで先生は、Kのその自閉的な性格も含めて「一人で置くと益人間が偏窟になる」(p232) ことを心配し、招き入れたのである。

 しかし、同時に、先生はこの頃、お嬢さんに好意を寄せている。我々がごく一般的に考えて、他人がーしかも男性がー未だ自分の好意を寄せているのみの(それを伝えている訳ではない)女性と同時に暮らすのは、やや敬遠すべき事態ではないのか。実際、既にお嬢さんと先生を結婚させたいと考えていたと思われるお嬢さんの母(以後「奥さん」とする)は、先生がKを招き入れることに如実に反対の意を表している。

 奥さんは私のこの提案に対して始めは不賛成だったのです。下宿屋ならば、一人より二人が便利だし、二人より三人が得になるけれども、商売でないのだから、なるべく止した方が好いというのです。〔中略〕気心の知れない人は厭だと答えるのです。(p231)

 それにも関わらず、先生はKを招き入れる。先生は、「彼の前に跪まずく事を敢えてする」(p230)ほど、Kに下宿に来て欲しかったのである。では、招き入れた結果どうなったか。実際に、Kは奥さんのことが好きになり、その結果は、我々が知るところである。

 それではやはり我々は以下のように問わなければならない。なぜ、先生はKを下宿先に招いたのだろうか。作田啓一は、『個人主義の運命ー近代小説と社会学』の中で、この先生の行為は、極めて個人主義的であるとする。どのような意味だろうか。その前に一度敷衍しよう。ギデンズは、『近代とはいかなる時代か?ーモダニティの帰結』において、前近代は「埋め込み」の時代であったのに対し、近代は「脱埋め込み」の時代であるという大変興味深い図式を提示している。前近代は、地縁や宗教、職業などに基づく固定的で不変の共同体に人々は「埋め込まれ」ていた。故に、我々は、もちろんその中での不自由はあったがー例えば『ロミオとジュリエット』はそのような一族の共同体に埋め込まれた時代の悲劇であると言えるー我々は、その中で一種の存在論的安心があった。近代は、そのような共同体が瓦解する。その結果、我々は以上に挙げたような固定的な共同体から「脱埋め込」みにされる。我々はその流動的な社会において、初めて個人主義を経験する。個人主義的社会は、一方でその自由が許されているが、他方では、固定化された、一定の価値観を失う。(例えば前近代は宗教共同体に代表される「神の望むこと」が最大の価値とされたことを思い出してみるとよい。)

 さて、その中で、我々は如何なるものを価値観の代表とすればよいのだろうか。近代の価値観を現したテーゼとして、ヘーゲルが述べた「欲望とは他人の欲望である」という言葉を補助線にしたい。これはすなわち、「欲望とは他人の承認を得たいという欲望である」と柄谷行人にならって言えるだろう。「欲望」と「欲求」は異なる。例えば、お腹が空いたので食べ物を食べたい、というのは欲求である。しかし、有名な高級レストランで食事をしたいというのは欲望である。ヘーゲルをモデルにルネ・ジラールは、「欲望の三角形」という概念を提唱する。欲望とは、「私の欲しいものを欲望する」という訳ではない。欲望とはいつも、「他者が欲望しているものを模倣し欲望する」ものなのである。故に、我々が結婚相手や恋人を選ぶ際によく聞く言説、すなわち「美人と結婚したい」や「イケメンと付き合いたい」、あるいは「結婚するならお金持ちがよい」というのは押し並べて、他でもない「この人」が好きなのではない。全て、代替可能な他人の欲望を欲望している[1]に過ぎないのだ。

 さて、我々は目下の問いに十分に答えることのできるヒントが出揃った。先生が生きた「明治」そして「大正」という時代は、まさしく日本人全体が個人主義化していく時代であった。そして、また、日本という国自体も、西欧を模倣することで(西欧の欲望を欲望することで)世界に承認されたい時代の始まりであった。そのような時代ーすなわち「脱埋め込み」され、普遍の価値を失った時代ーにおいて、先生は、Kにお嬢さんの価値を認めてもらいたい、ただその一点のために、Kを下宿先に呼んだのだ。なぜ『こころ』の主人公の中で、「K」のみがイニシャルなのだろうか。それは、まさしくKが代替可能な欲望する「一般的他者」の代表であるからである。(数学的変数といってもよいかもしれない。)先生は、このお嬢さんが本当に自分の好意を寄せるべき人間であるかという問いに、確固たる価値観のものさしがない。故に、第三者(K)をリトマス試験紙のようにそこに挟ませることによって、お嬢さんが好意を寄せるべき対象であることを測らせたのである。実際、Kはお嬢さんを好きになった。そしてその瞬間、お嬢さんは先生にとって「本当に好意を寄せるべき女性」になったのだ。(同時にKは「用済み」になった。)

3. 「シニフィエなきシニフィアン」としての「明治の精神」

  さて、先生は、自身がお嬢さんを好きになった理由が、先の章で見たような自身とお嬢さんとKの欲望の三角形によるものであると、どこかで無意識的に勘づいたのではないだろうか[2]。先生はそこで初めて、自身に絶望する。貨幣(=資本)も、「欲望の欲望」の代表だが、先生自身が、その貨幣のために先生を出し抜いた軽蔑すべき叔父と全く同じ構造にてお嬢さんを手にしたのだ。先生は、その時点で自死をどこかで決意したとは考えることができないだろうか。しかし、先生は、死ねない。なぜなら、その「欲望の欲望」に絶望したという理由で死ぬことは、自身の生やお嬢さんやKを否定することになるからだ。先生にはそれは出来ない。出来ない弱い人間だからこそ、主人公である「私」に「記憶して下さい」(p323)と述べる。意識的か無意識かはわからないが、先生は最後まで、その自身の真の絶望を隠蔽しながら、過ごす。

 そして先生は、「明治の精神」に自死することを決める。その先生を死に至らしめる「明治の精神」は先生の中にもともと備わっていたものでは決してない。例えばそれは以下の箇所からわかる。

 すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました。最も強く明治の精神を受けた私どもがその後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが私の胸を打ちました。〔中略〕私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死する積もりだと答えました。(p323-324)

 先生にすれば「綺麗に死ぬべき口実」が出来たのだ。なぜ明治天皇や乃木大将という「社会の人」の死に影響を受けて、今までその社会を忌避して高等遊民として生きてきた先生が死ななければならないのだろうか。明治の精神というものがあるとすれば、それは社会の精神であり、決して個人の精神ではないのだ。しかし、その言葉に先生は惹かれる。これで自分が死ぬべき立派な理由が出来たからだ。先生はその「明治の精神」という言葉を、意味が注入されていない、「シニフィエなきシニフィアン」として、自死する理由のためだけに利用する[3]。何という自己欺瞞であろうか!先生における「明治の精神」の空虚さ、そしてそれはひとえに我々の暮らす近代社会のある種の価値観の空虚さに起因している。そこに我々は着目しなければならないだろう。すでに我々は、前近代に戻ることは出来ない。その中で、我々は如何に第三の道を探れるだろうか。漱石の出した問いは、未だ我々に有効である。

 第三の道を見つけることができなければ、我々近代人は皆、先生のように、自己欺瞞のうちに生きて、死ぬしかないだろう。

注釈

[1]子どもが捨てたおもちゃを、他の子どもが手にしたときに、突然再びそのおもちゃが羨ましくなる時を思い出してみよ。

[2]ここでは注釈程度に済ませたいが、お嬢さんは(広くいうと女性は)、そのことに自覚的なのではないか。男性は常にベタでしか生きれず、そのことに絶望する。他方、女性はメタでもベタでも生きれる「強度」があるのではないだろうか。Kと先生どちらも弄ぶ(ように見える)お嬢さんの姿や、嘘泣き(p63)にも見えるお嬢さんの姿を思い出すとよい。

[3]例えば、戦時下に護持することが求められた「国体」という語についても、我々はその定義を積極的にすることが出来ない。しかし、それこそが、最も重要なものであるとされたことを思い出すと、「国体」という語も「シニフィエなきシニフィアン」の代表だろう。


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