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地図が変えた人生

小学校に上がる前の初冬、私たち家族は上京した。
家族の歴史の中で、最も長い距離の夜逃げである。
東京の下町にある従業員50名ほどの工場の事務所の2階の一部が、新たな住まいとなった。

4畳半が2間。5人暮らし。
トイレは階下の事務所のものを使った。
風呂はなく、銭湯に行っていた。

1階には事務所用の台所のような水場もあり、横に「電熱」と呼ばれる熱線がぐるぐる巻いたやつがあって、これでヤカンの湯を沸かした。
うちもここを使わせてもらったが、ろくな調理もできない。

私は毎日、近所のお肉屋さんが揚げるコロッケを食べていた。
私の体のほとんどはコロッケでできていた。
1日1個のコロッケでは、栄養失調になるのもやむを得ない。
貧困と方言と、その難民体型は、からかいやいじめの十分すぎる材料になり、私はあっという間に不登校になった。

事務所のトイレは、いわゆるポットントイレで、しゃがむと前壁に大きなシミがあった。
汚いだけでなく気味が悪い。
それは子供の私だけでなく、母もだったのだろう。

あるとき、母はそのシミを隠すべく大きな日本地図を貼った。
たぶん1枚物のカレンダーでどこかの商店(書店?銀行?)が配ったものだろう。

不登校になった私は、朝の登校時間になるとお腹が痛くなり、トイレから出られなかった。
周囲は仮病だと言ったが、本当に痛かった。
痛いけど、転がって唸るほどではない。
下痢や便秘ではないから、しゃがみこんではいるもののすることがない。
それで、見るともなく壁の地図に目が行く。

不登校は4年近く続いた。
学校が休みの日はお腹が痛くならないので、登校すべき日の数だけほぼ4年間、毎朝、30分ほど地図を眺めたわけだ。

4年生の終わり、両親ともに転職。
それまでの下町からちょっと山の手寄りのところにアパートを借りた。
この転居と転校が、私を脱皮させたと思う。
5年生になって、クラス替えがあり、社会の授業の冒頭、教師は順に日本地図を描かせた。
一人ずつ前に出て、北から順に黒板に形と県名を入れていくのだ。

北海道と青森県が描かれたところで、すぐに正解が途絶えた。
秋田、岩手、山形、福島あたりが、ごっちゃになっているらしい。
私の番になった。

自分でもびっくりするほどすらすらと書けた。
止まらない。
関東が終わり、中部が済み、関西にかかったあたりで、
「どこまでやっていいんですか?」と問うた。
みんなが呆気に取られているのがわかった。

「最後まで行っていいんですか?」
最後まで行った。
拍手が起こった。
そんなことは生まれて初めてだった。
みんなから馬鹿にされることはあっても、讃えられることなんて一度もなかった。

私は突然「田舎者のひきこもり」から「神童」になったのだ。
すげー!東大だって行けちゃうよ。
な、わけないが。

それから、急に友達が増えた。
特に男の子。
休み時間や、つまらない授業の時間、私は彼らと「地名探し」をして遊んだ。
一人が地図帳に載っている地名を出題し、ほかの子たちがそれを探す。

私は、内職で稼いだ金で、毎月大判の時刻表を買うようになった。
だから、地名も好きだが駅名が得意だ。
いまみたいに、ちゃちゃっと検索できる時代ではないゆえの楽しさ。

「女の子」としての魅力でちやほやされているのではないから、ほかの女の子たちの嫉妬もあおらない。
むしろ、取り巻く男の子目当てで私に親しくする女の子もいて、私はよく「仲介」を頼まれた。
もう誰も、私がかつてはいじめられっ子でひきこもっていたなんて思わない。

そして、その地図好き、時刻表好きは、15歳から一人旅好きに私を導くのだ。

因果という言葉はあまり好かないが、そうなったきっかけを辿るのは面白い。
あのことがなかったら、次のこれもなかったのだと妙な感慨がある。

トイレのシミを地図で隠した母にはとても感謝している。
あのとき、もし夜空の写真が貼られていたら、私は星座や神話に興味を持ち、天文学者を目指したかもしれない。
いや、いまはほとんど見向きもしない星占い師になったとか?

渡仏前、フランス語の数を大判のカレンダーの裏に書いてトイレに貼った。
だから、会話はほとんどできないが、市場で値切ることはできる。
フランス語のドラマや映画を見ても、数字のところだけはいまでもすぐわかる。

そして、洋式便座のなんとラクなことよ。
いまなら、30分はしゃがめない。


読んでいただきありがとうございますm(__)m