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もういいよ。

母が生きていた頃にやっていた郷里の味のお取り寄せを復活した。
「赤巻き」という板に付いていないかまぼこと「カニ」。

事故前までは「自分一人のためにそんなに贅沢する必要はない」という認識でいたのだが、事故後「人間って予期せぬときに案外あっさり死んでしまうんだ」と実感してからは、「独りになったからこそ、自分のために少しくらい贅沢するのもアリか」と思うようになった。

要・不要を分けたことで、「要」のほうに力を注ぎやすくなり、世間の歳時記とは別のメリハリがついた感じだ。
副業の受注もあったので、掃除はいつもの週末程度となる模様。
年末だからといって特別にやるのは、家事代行の「初回お試しコース」のみだ。

派遣会社から、スキルアップのための講座受講の要請があったので、お正月はその動画を見てテストを受ける。
今月初めに案内されたが、動画時間の時給分は給与として支払うというので、時給の上がる(交渉が成立した)年明けの受講にした。
年末年始のテレビは面白くないから、ちょうどいい。

それでも、「休み」というだけで、なんだかウキウキする。
一人暮らしになる前は、けして感じることのなかった嬉しさだ。
兼業主婦や介護時代は、世間通りの大掃除やおせちづくりの義務感、そしてデイサービスが休みになるという事態は絶望しかもたらさなかった。

晩年の母は、気力が衰えて、まだ体力が残っているときも、何もしなくなった。
「私は、もう一生分のおさんどんをやった」
というのが、その言い訳である。

いまの私の中にも、そんな気持ちがある。
中学生のときから始まった介護は、母が死ぬまで、計6人。
夫は、兼業画家だったので、ほとんど残業や出張をせず、休みの日も出かけず絵を描いていた。
なので、必ず昼食が発生する休日が負担だった。
朝から晩までご飯のことばかり考えて、対応しなければならないのがしんどかった。

友人が「今日は夫が遅いから(出張でいないから)ご飯の支度をしなくていい」というのが、すごく羨ましかった。
年末年始は両実家と合わせて3軒分。

子供がいたら、私も「一生分の介護とおさんどんをやった」と言うかもしれない。
一生分の掃除はたぶんしていないと思うけど、まあいいや。

もういいよ。

このアダージョは、実はアルビノーニの作ではないらしい。
いずれにしても、好きな気持ちには変わりがない。
検索して「癒しの音楽」みたいなカテゴリで流れる曲に、私はなぜか癒されない。
弛緩ではなく緊張感やドラマ性のあるメロディーが、私の心に落ちる。
さらさらと流れる小川のせせらぎよりも、豪雨と雷鳴の動画を流したほうが眠れる。
でもそれはたぶん、雷雨が画面の中だけで、私やほかの人たちにいま被害をもたらしているというものではないからだろう。

若いころは、年末年始を家で過ごすことがほとんどなかった。
帰るところがあっての旅なのだろうな。
けれど私はいま、旅もせずにずっと家にいるが、一生、帰着点を持たない人生だったなと思う。

「アルビノーニのアダージョが
 流れる
 一人の部屋で
 珈琲を飲む
 幸福な孤独」

読んでいただきありがとうございますm(__)m