もくたん

知の入り込む余地を常に開いているべく、今ある知識を整理しながらこねくりまわしていきたい…

もくたん

知の入り込む余地を常に開いているべく、今ある知識を整理しながらこねくりまわしていきたいと思います。決して賢人ではないけれども、着実に全知へ歩を進めるために。

最近の記事

人間の角

2021.11.27  昔から、僕は人間について2つの見え方がある。なぜか顔と名前を覚えるのが苦手なのはもしかしたらこれが原因かもしれないのだが、肉体や顔の造形をそこに見る時と、存在の膜のようなものをそこに見る時がある。表面に表出させている「自己像(=アウトプットの結果としてのコミュニケーションの総体)」が膜としてあり、その内側にその人が持つ固有世界としての「存在」が満ちているという図だ。また、その「存在」の当人にとっての定義と、実際の「存在」とがずれていることも目につくこ

    • 参照可能な思索の前進について

      2021.11.22  かねてより、僕の目標は社会問題の解決にあったけれども、社会問題とは紐解いていけば、「だれかある人が十全に人生を全うできない環境」の換言である。「十全に人生を全うできない」とは自己実現できない、あるいはそのための努力に献身できない環境を強いられていることであり、自己実現は前章で述べたように、これまでの人生を振り返って捉えなおす作業と、未来時点から同じ作業を行ったときに同じくなるよう努力することの2ベクトルがある。(前者は完成された状態であり、後者は未完

      • 楽しかった日々

         自己実現、自己が自己であると認識するための一貫性の獲得には、過去の人生を、行く道の過程として認識し、自らにとって意味のある唯一性をそこに見出す「振り返り」と、将来の時点から振り返った時に再びそう思えるべく、自ら思う過程へ身を投じる「前進」がある。そして、「前進」のため自らの習慣、思考を変容させることは「超克」と呼ばれる。  時に物事は理不尽であるからして、僕たちが自らを自らであると位置付けるためには、その理不尽をも要因として認め、今を起点として見つめ返すことが必要である。

        • フェミニスト諸氏にはもっともっともっと頑張ってほしい話

          2021.11.19  今般、Twitterで”ホット”な話題となっている、「温泉むすめ」の炎上とその妥当性、フェミニズム、性差別の捉えられ方について(男性であるので諸氏からすれば”専門外” “外野” “オス”かもしれないが)論考を試みたい。  なお、問題の概要については、下記ニュースをご参考にされたい。 https://news.yahoo.co.jp/articles/fd689727f9c5e6a188483352f818906a2ed5103e  ここで提起され

        人間の角

          資源配分と個体数について

          2021.11.18  人間はその生存戦略として資源の在り高を把握し配分すべきであると僕は考えている。考えてみれば、それは生物が皆無意識に行っていることだ。人間に移動させられない生き物は、(進化の過程で淘汰される生き物はおれど)絶滅しないように、かつ、絶滅させないようにお互いの個体を調整してきた。翻って人間はどうだろうか。一人一人の個体を生き延びさせれば、野放図に増加するだろうか。  子供についての考え方も、性についての考え方も、近年多様化しているように思われる。データで

          資源配分と個体数について

          為せない大儀について

          2021.11.17  日々できることを目標に達するまで少しずつ蓄積させていく他にない。漫然と日々を過ごし、目標に対して未達であることが恒常化すれば、何事をも為せない体質になる。ここで気を付けなければならないことは、為せない大儀についても、着実な過程を想定できなければ、いずれ小さなことについても未達が日常化するということである。  為せない大儀は罠である。現状未達であることが当然であり、ともすれば未達を繰り返す日々を首肯するための材料になりかねない。例えば、「いつか空を飛

          為せない大儀について

          問答

          2021.11.16  人間一般の幸せを願いながら、しかし特定の人間の渇望を満たす気にはなれないという心地はなんであろうか。僕が生きているうえで、倫理的に善であっても、応えたい人と答えたくない人がいる。応えることも、それによってもたらされる効果も「善い方」であることは直観的にわかるのだが、僕がそれに応えることにより、何故か削られるような心地になる事柄の群が存在する。なお、僕が願うのは人間一般の自己実現が為される社会の構築が為されることである。  何かの本で読んだが、マザー

          少数の悪意とその連鎖について

          2021/11/15  少数の悪意は多数の善意によって構成されたコミュニティを滅ぼしうる。今般参加していたコミュニティで改めて認識した。それは悪意の伝播という形でも起こりうるし、善意=社会契約に根本から疑いをかけ、万人が自然状態ではないかとの疑念を持たすことでも起こりうる。言い換えれば、誰かの発言が確証なくその通りの意味を持つための信用の土台を崩しにかかるとも言える。こうなれば、たちまちにして、隣人は武器を持つ者と同義にならざるを得ないのである。通り魔ではなく、隣人の武器か

          少数の悪意とその連鎖について

          ブログ開始宣言

          2021/11/14  全能とはすべてのことが可能となるような道筋を知っている状態であって、全知は全能を包含している。人は、今すぐにその遺伝子情報を意図的に変異させて空を飛ぶことはできないけれども、そのための方法はどんなものであるかを解明しようと努力することはできる。一生に読める本の文字数を理論的に考えてしまえばおのずと限界が見えてしまうが、そんな浪漫のないことをいっても仕方がない。ここで重要なのは、「全知への道は開かれている」ということだ。全能となる想像はすぐにできないけ

          ブログ開始宣言

          青春の終わり

          盆。死者が胡瓜等に乗り俗世を訪れるとされる季節。諸々の関係から離脱できてもなお舞い戻るのは、僕が知らないような愛を遺してきたからなのか、はたまた執着を抱いたままだからなのか。僕は執着を手放せずにいた。今日、その執着を祭壇に据えて弔うことによって、思い出という冥界に送り出したいと欲して筆を執った。 送り出した影は胡瓜に腰を据えられるような大きさではない。幾何級数の大きさにもなる巨人であり、背にヒト一匹分をかたどった穴がある。名は自我という。浅ましさの虚像であり、発達段階の一で

          青春の終わり

          宣誓

          2021.8.11 1.私は、妥協のない心で学び続け、知見を向上し、未踏の解へ邁進することを誓う。 2.私は、形而上的感性の賜物である芸術・文化への感動を忘れず、非言語の領域に至るまでこれの継承を念頭に置くことを誓う。 3.私は、生きる時代の本質的正義を追求して、正義と悪を最大限の倫理的努力によって峻別し、悪に打ち克つ方法を考え、正義を推し進めていくことを誓う。 4.私は、自己と他者を区別し、他者の在り様を歪めることなく、また他者から受ける目線についてもこれを自由なものとして

          直観に規定される人と社会について

           僕という存在は、今確かにここにある。存在の内なる部分に核があり、核は直観を持つ。それが脳の機能の何と呼ばれるかはわからず。ややもすると、脳という機能を超えて存在を既定するための引力斥力が働いているのかもしれない。僕が何をして喜び、何をどのように感じているかを明確に、無限の画素をもってありのまま感じる機能がある。そこへいかにアクセスするか、その感覚にどれだけ近づくことができるかが、感覚的能力なのではないかと思索している。それはかつてイデアと呼ばれたかもしれない。  人間は一

          直観に規定される人と社会について

          倫理と意義

          彼方を見つめるようにして、心の内なるを吐き出せば、しかしその心は凡庸でしかなく、自らの姿が群衆に溶けていくさまに嘆息するけれども、どうすることもできずに年が過ぎていく。25歳と四半期が到来した今、書き落とさなければならないことがあると筆をとった。 一体ヒトという生き物は何を目指すのだろうか。データがあるわけではないから、憶測でありデマの一つに過ぎないけれど、僕たちは意義を目指すようになったのではないかと感じている。生を継承する意義、生を継承しない選択をしてもなお個体として生

          倫理と意義

          善悪の問い

          ※本文は思案の実験であり、現行措置に対するパブリックコメントや何かしらの行動への教唆を目的とした文章ではありません。あくまでも、自粛を含む措置を履行するかどうかは個々人の判断と規制に委ねられるものです。また、僕の人間観についても公正中立ではありません。  何を善しとし、何を悪しとするか。何を選び取るものとし、何を切り捨てるべきものとするか。これほどまでに善悪が根底から問われた機会は、僕が生まれてからはなかったかもしれない。ヒトはこれまでも、自然状態での暴走を避けるために法律

          善悪の問い

          25歳

          25歳になりました。考えていること、感じていることを書き落としていきます。 24歳は恥を知る歳でした。無知であることの恥。人の気持ちをわかっていると思い込むことの恥。恩に背を向けて退廃を気取り、滑稽を晒すことの恥。 家族とも友人とも衝突を重ね、生業に迷い、ある時は何かを見出せていると信じ、ある時はすべて失ったと嘯いて考えることから逃げようとする。 世界がままならぬ状態に陥りながらも、ただそのままでは安穏と過ごしてきた子供であることをごまかせずにいて、自分はまじめにやってき

          所属考

           仲間がおり、居場所があること。それは自然発生する状態でありながら、しかし維持の方法が確立しておらず、傲り高ぶれば早々に失い、自らを殺せば安堵を得られなくなるという二律背反の間に保たれた均衡である。  僕は様々な集団に属し、抜けたり、排されたりしてきた。所属が液状化した社会においては、価値観は流動的であり、万人が1秒1秒変化させている。それゆえ、集団に属するそれぞれが共通項をそのままにしていることなど本来はあり得ない。悲しい事実であるが、人間の集団は努力なしに保つことがほぼ