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倫理と意義

彼方を見つめるようにして、心の内なるを吐き出せば、しかしその心は凡庸でしかなく、自らの姿が群衆に溶けていくさまに嘆息するけれども、どうすることもできずに年が過ぎていく。25歳と四半期が到来した今、書き落とさなければならないことがあると筆をとった。

一体ヒトという生き物は何を目指すのだろうか。データがあるわけではないから、憶測でありデマの一つに過ぎないけれど、僕たちは意義を目指すようになったのではないかと感じている。生を継承する意義、生を継承しない選択をしてもなお個体として生きる意義、生を継承しないことの意義。個体が異なる思考を持つことは、進化の飽和かもしれない。どう育つことが、どの生物に対して、どう正の作用を及ぼすのか。あるいは、正の作用など最初から存在しないかもしれない。我々有機体が存続することにより存続を断たれる何かしらの存在があるのであれば、正とはすなわち我々にとっての正でしかないからだ。

だから、ある程度まではレベルを諦める他ないだろう。現状、気にすることができるのは現世の、脳を含む身体をしてどうにかすることのできる事柄だけだ。その生物としての限界を忘れて高邁な理想に浸る現在進行形に囚われた無為な日々を過ごしてはいけない。すべての個体へ同時に話しかけることはできないし、現状脳とは地球上に存在する全事象を捉えるほど発達した部位ではない。

全知でありたいと願ってきた。その割に、すべての時間を知の涵養に使ってきたわけではない。その願いと怠惰の間に蹲って、自らヒトとして存続する意味を考え続けて早5年になろうとしている。停滞に光を見出したと思えば、光源がなんということはない木漏れ日に過ぎなかったというような感じのする日々を過ごしてきた。こうした文を認める度に、周囲の目を気にして、希望的観測によって締めることをしてきたけれど、依然として寄る辺なさのあることは、認めざるをえない。

友がおり、家族がおり、想う人がいる。少なくとも、彼ら彼女ら(あるいは)の幸福なる存続を願うことは条件の一だろうと直感する。ヒトであることを忌み嫌い、逸脱の中に身を置こうとしたけれど、存在を認め望まれるからしてこの身と思考が存続できることを考えれば、そこに応えようという心は残っていた。僕という個体の持ち合わせた運だろう。

然し、存続がそれ単体で僕にとって意味を持ちうるようにはまだ思えていない。いつか、超克とは足すことではなく執着を捨てて一つ外の次元に出ること、すなわち引き算だと僕に説いた人がいた。それは師の目指した理論的超越に、力への意志に、なるだろうか。現世の傍らに100年根ざすことそのもののみに意義を見出すのは個体として世界と向き合う道であるけれども、それは在りし日の”私”から見たら、目鼻口を削って群衆の一人になることと同義ではないか。

一体僕は幸福だろうか。この生の存続そのものが。皆の幸福を保たんと努力できるだろうか。それは何によって。

すなわち、倫理の忘却に警鐘を鳴らさなければならない。ここでいう倫理とは、人の幸福たるを願う心と解している。人が不足よりも満たされた状態であることを、悲しむよりも喜びに満ち溢れることを願い、行動の指針として保つ精神を、この紙面では倫理と名付ける。「大人になること」とは、部分的倫理の忘却なのだ。既存社会のあるがままを受け入れ、その困難が人に降り注ぐことをすら、所与として必須のものと解することで、認知的不協和に幕を下ろす。全体命令に逆らえないかとでもいうように。人は機構の一部となった時、殺戮すら厭わないことは歴史が証明してきた。

愛をもった親と子が共にいる時間が短ければ悲しいだろう。家を建て、自ら居場所を見出したにも関わらず移動を命じられることは悲しいだろう。残された者は共に過ごすはずの時間を社会に収奪される。そのことへの怒りは当然であるように思われるのに、機構に精神を侵され違和感すら覚えなくなったヒトがいる。信じ難いことに、それが職業人として当然とまでのたまう。一体、幼子より愛を受けてどこで忘れたというのだろうか。寂寞を断つのは成長の途だとしても、そこまでして人間社会を支えると錯覚されるいくつかの事柄を持続することに、何の意味があるだろう。

この、倫理の忘却をもたらす機構は紛れもなく、市場である。かつて神の子と自らを称する者が、教会の市場を取り壊してまわったことがあったと伝える書物がある。市場とは人間が資源の交換と分配を行うべく見出した手法の一であって、そのものが深遠な問いを持つ探求の対象ではなく、奥底に物質的知見はない。にもかからわず、ヒトは市場に深遠を覚え、そこに見出される虚像をもって、自ら家族や友と引き離されることすら厭わぬような洗脳を受け続けている。

生産物の競争によって身辺の構築が進化した時代があった。今、構築の進化はヒトが生物として満足しうるレベルに達していないだろうか。あるいは不満足があるとしても、その不満足に対応すべく努力すればよいのであって、生産物の競争でしか生物的な欲求すら満たせないということは、前時代的ではないだろうか。生産のことしか考えられなくなったヒトの観点に立ってやるとしても、充足までのタイムロスが、寧ろ進化の妨げになっていないだろうか。ヒトが哺乳類として当然に受ける喜びを満たすことが市場でなし得ないということが明確であるならば、研究者たろうとする僕にできることは市場に代わるシステムの構築と、その流布である。

市場が倫理を忘却させ、倫理の忘却は新たなる倫理の破壊を生む。倫理に非ざる行為を受けた者は認知的不協和を解消すべく倫理を穿った目で見て社会に臨む。その連鎖を断ち切らなければならない。断ち切るための理論的構築は、恐らく試みられたことがないか、試みられているけれども表出してコミュニティを為すほどにはなっていない。

僕は物質である以上、資源は捕捉可能でその分配は構築可能だと考えている。そして、必要資源が満たされることが公共の分配機能の使命であるならば、最後に生存と文化的生活そのものはゼロの貨幣的価値によって実現されるべきであると信じている。

上記を為しえることが、自己実現なのだろうと信じたい。少なからず、今行っていることを繰り返し再生産することで生涯を閉じるようなことは避けたい。機構に加担して、認知的不協和を解消するために若者をもその機構へ参加することを促すような大人になりたくない。そのことが、僕にとっての意義であるし、倫理を失っていない部分である。

目標へ向け邁進しなければならないことは理解している。今こうして過ぎゆく時の怠惰を許してはならないことを認識している。僕にも楽しみはあれど、然し誰かが理論的展開に走らねば市場という機構の倫理破壊が止まらないことを覚え、漫然と日々を過ごすことが意義から遠ざかる行為であることに気づいている。

果たしてこの知見は、それすら周囲への強がりだろうか。寄る辺ない身であることを否定したいがための、吐露の公開だろうか。今、今日、明日の行動が、必須の蓄積たらんことを祈り、書へ向かうばかりである。

2021年6月27日

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