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資源配分と個体数について

2021.11.18

 人間はその生存戦略として資源の在り高を把握し配分すべきであると僕は考えている。考えてみれば、それは生物が皆無意識に行っていることだ。人間に移動させられない生き物は、(進化の過程で淘汰される生き物はおれど)絶滅しないように、かつ、絶滅させないようにお互いの個体を調整してきた。翻って人間はどうだろうか。一人一人の個体を生き延びさせれば、野放図に増加するだろうか。

 子供についての考え方も、性についての考え方も、近年多様化しているように思われる。データで見てもそうだと信じたい。人間が自己を自己として一貫性を覚えながら生きていくとき、必ずしもそれは個体数以上の個体数を持つとは限らないようである。現に、少子高齢化は先進国諸国(日本、イタリア、ドイツ等)で問題になりつつあるという。卵を多く生むような生物が、食べられることを前提とせずその個体を全て生かしてしまえば幾何級数になってしまうのは時間の問題であるが、人間は少なくとも一回の出産で多くは一頭(一人、一匹)しか生まないわけであって、(それは外敵がいないという特性によるのかもしれないけれども)直ぐ野放図に個体が増えるわけではない。また、所謂先進国ではない国でその個体を増やすのは労働力としての側面が強いのだという。それならば、資源が配分される社会ではなおさら、子の数も一定に収まるのではないか。

 今、一人一人が個性を求められる時代にあって、一人一人が生まれながらにしてそれぞれの自己実現を目指せるような社会にはなっていない。それは資源配分の行先が、なぜかその自己実現の形によって限られているからであって、少なくとも明日を迎えられるだけの資源が無条件に賦課されれば、それこそ多様な生き方が許されることとなろう。

 資源が無条件に賦課されると努力しなくなるという者があるかもしれない。然しながら、義務感の下で空虚に生きる者もまた、その生き方に身を投じているとは言い難いのではないか。身を投じるとしたら、その生き方を見つめなおし「それでよかった」と解釈し直す必要がある。それならば、そもそもそれが義務でなくても同じことである。
 そればかりではない。資源が無条件に最低限賦課されるのであれば、挑戦もまたしやすくなる。肯定的な挑戦すら、自らと自らの血縁の命に直結しないとできないのは、挑戦を妨げる要因となっていないだろうか。(命がけで起業した人はその背水の陣の心地がよかったかもしれないが・・・)

 このことは、最後に「~が正しいと思う」という争いになるような気が今からしている。然しながら、その時には臆せず、限りなく科学的に論拠は固めながら、「僕は人々が無条件に自己実現を許されている環境で各々努力するのが正しいと思う」と言いたい。そのために資源がどのように配分できるのか、その社会における努力は僕の考える努力足り得るのか、僕は努力をそもそも想定できているのか、問い続けなければならないと感じる。


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