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青春の終わり

盆。死者が胡瓜等に乗り俗世を訪れるとされる季節。諸々の関係から離脱できてもなお舞い戻るのは、僕が知らないような愛を遺してきたからなのか、はたまた執着を抱いたままだからなのか。僕は執着を手放せずにいた。今日、その執着を祭壇に据えて弔うことによって、思い出という冥界に送り出したいと欲して筆を執った。

送り出した影は胡瓜に腰を据えられるような大きさではない。幾何級数の大きさにもなる巨人であり、背にヒト一匹分をかたどった穴がある。名は自我という。浅ましさの虚像であり、発達段階の一である。

僕は、自分を非凡と信じて疑わなかった浅ましい少年時代の日々を持つ。何事についても他者より為せば他者より優ることができると考え、そうでなくとも、自分には単なる経験の累積以上の非科学的要素、カリスマ、潜在的可能性があると考えを巡らすことを辞められなかった。この病理をたちどころに手放し、踏みつけ、跡形もなく根治させなければ、僕に進歩した明日はない。

僕は関係に病理的な固執がある。それは、翻ってみれば自らがどのような視線を受けるかというトピックについて、限りなく尊大な目線を向けられることを要求していることの裏返しであって、好く、嫌う、ということも含め誇大妄想を他者の眼窩から投射しようと欲する。その像が揺らげば、これを修正しようと他者へ媚び、媚びても受け入れられなければ縁を断って虚像を保つ他の灯を探す。このことが友人の口から自分に告げられたら、恐らく僕は彼を軽蔑するかもしれないが、その羞恥を啜り認めないことには、僕の罪過が許されることはない。

僕が、僕としてただ存在することだけによる潜在的な才覚の可能性はない。この際断言しておく。僕にあるのは、少しばかり得意になって文を読んだだけの知識、わずかばかりの会話による会話手段の初級程度の取り扱いスキル、音楽への微かな興味だけである。これだけではどうにもならない芥の詰め合わせのような状態が今の僕の脳だ。中肉中背、化粧も知らなければ着飾り方も知らぬ。25年の停滞の結果生じている体たらくが今の滑稽なサル1匹である。他方、そのことを隠すように言葉ばかりを修飾し、他者へは偏屈した優遇と母性を求め、またそのことももっともらしく騙っていた結果、今日送り出す巨人を生んでしまった。

このことの悔恨は尽きず、認めることはこれまでの生を真っ向から否定する意味で切腹の印象を受ける。然しながら、どんなに本を読む行為に浸っても、自分についてとんと考えることができず、どんなに人と話しても、その投射への期待が拭い去れないのであれば、僕は僕に存続を許せるほど成長を感じることができない。であるからして、ここに羞恥を開陳してこれを外部化し、切り離した境地に至る必要が生じるのである。

僕には才覚も知識も他者との会話の蓄積も足りない。およそ思いつくところのすべてに不足がある。だからこそ、謙虚に蓄積を行う他に自己の厚みを増す方法はない。物理的協力を仰ぐことがあっても人に期待してはいけないし、ましてや人を変えられる存在などと思いあがってはもっといけない。何がしたいかもわからなかったのは、虚像が何をしているのがふさわしいのか、虚像であるが故に説明できなかったからである。

できることと、できないことがある。それ以外にない。できることはでき、できないことはできない。できないことは補うか、独力でする必要がないならば協力を仰ぐか、諦めるか。それ以上を欲しては、すなわち、不可能であることを自ら解明する以上の物理的法則を超えて可能だと宣言することは、自らへのペテンである。不明であるからといって、潜在的才能をいくらでも騙ってよいことにはならないからだ。

僕はこの虚像を消すために、人前を去ろうとも考えた。しかし、人の前を去っても、僕の自己像への執着、つまり投射への欲求がなくならないのであれば何の解決にもならない。人がいなくなったところで人を欲するだけだ。それは停滞であって成長はない。

自らを厳密にあるまま捉え、その不足を即座に補えるような存在だと思いあがらないことを誓い、25年余育ててきた傲慢を殺す。ありのままの姿で人とかかわることが多く、より選択を求められた盆休みに、殺害を決意した。もう浮かび上がらないでくれ。

恥ずかしい存在でした。大変申し訳ございませんでした。
身の丈に合った思想と、謙虚な行動に邁進します。

2021年8月16日

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