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所属考

 仲間がおり、居場所があること。それは自然発生する状態でありながら、しかし維持の方法が確立しておらず、傲り高ぶれば早々に失い、自らを殺せば安堵を得られなくなるという二律背反の間に保たれた均衡である。

 僕は様々な集団に属し、抜けたり、排されたりしてきた。所属が液状化した社会においては、価値観は流動的であり、万人が1秒1秒変化させている。それゆえ、集団に属するそれぞれが共通項をそのままにしていることなど本来はあり得ない。悲しい事実であるが、人間の集団は努力なしに保つことがほぼできないのである。(限られた時間に再集合するくらいの関係が長続きするのは、共通項を思い出して場に備えるからだ。)

 今僕は属している集団がいくつかあると自覚している。集団の各構成員からどれほどそう思ってもらえているかはさておき、いくつか居場所と自覚している場所がある。ここ最近になって、中にはある程度心を許して良いと思えているところもある。然しながら、それならば、潮時は今だろうとも思うのだ。自分の心が溶け出し、自他の境界があやふやになってくる時とは、端から見れば集団の空気感と異なるその人の像が露呈し始める瞬間である。

 僕は決して綺麗な生き方をしてきていない。僕のありのままが受け入れられていると勘違いをし、いきがり、保たれた均衡に入り込んでしまったようなことが、一回で学べず何度もある。コミュニティが旧来の考えに固着している場合など、抜け出す方が良いような場合もあるのだが、なるべく円満に滑らかに、関係をセッティングしたいという願いが自己の責任において叶わなかった経験という恥を啜りながら、なんとか人の顔を正面から見られるよう日々努力している。

 僕は人にも厳しいのかもしれない。好き嫌いははっきりしている。嫌いな人が喋っている言葉は角があるように聞こえるし、人にそう思っているせいか、自分の言葉に角があったらと思うと夜も眠れない。それでも無知の知、知らないよりは知れている方がマシだと信じるしかないが、酒を飲んで意図せず角を立ててしまったり、浮かれていたら全然人からの評価が違ったりということを思い返し続けたら、それだけで湖に身を沈めていきたくなるような心地がする。

 罪の自覚がある時、できることは二つ。罪を犯した相手がいるならば、最大限の謝罪と償いをすること。もう一つは、出来事の起こりの知識をもって、同じ罪の犯されるを防ぐこと。後者だけでは罪を犯された人々を救えないし、前者だけでは同じことを繰り返すことになる。生きていればわだかまりを抱えられているかもしれないという解消できない苦味を抱えながら関わる人々の幸せを願って歩んでいくしかないのかもしれない。

 今関わってくれているすべての友人、僕が僕であることを肯定してくれる全ての人々に感謝が尽きないことは、再三再四述べている。然し何度言っても足りないのは、毎秒毎秒みんなの価値観も変わっていると思うからなのだ。そこには努力、ないし心配りが少なからず存在しているだろう。その配慮に応える心を忘れずにいたい。

 


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