問答
2021.11.16
人間一般の幸せを願いながら、しかし特定の人間の渇望を満たす気にはなれないという心地はなんであろうか。僕が生きているうえで、倫理的に善であっても、応えたい人と答えたくない人がいる。応えることも、それによってもたらされる効果も「善い方」であることは直観的にわかるのだが、僕がそれに応えることにより、何故か削られるような心地になる事柄の群が存在する。なお、僕が願うのは人間一般の自己実現が為される社会の構築が為されることである。
何かの本で読んだが、マザー・テレサは「最も情を注ぎたくない姿で神は現れる」と語ったそうである。信仰の観点から言えば、僕が僕の為すべきことを、一般的な「正しい」のレベルまで引き上げるための試練とは、このような気分と拮抗し続けることかもしれない。然しながら、人間が自然状態で満たされるとは、決して信仰によってその在り方を変容するような形ではないはずである。(かつて存在した宗教を信仰することにより霊性に満ち溢れたと感じ幸福の域に達した人間と、抜け出したい新興宗教に身を置いている人間との差異については、ここでは触れないこととする。)
それとも、選択の後に、バックキャストで「これが正しい」と思えるのだろうか。現在その解を知ることはできないとすれば、「自己実現を目指す」という言葉そのものを分解して考えなければならないという話になる。人生において、自己効力感をもって選択が行えた方が”およそ良いだろう”とは感じられるし、そうであるからこそ試練に対しても、自己が自己であるという認識を失わずに対峙できるものだ。この、対峙と解釈、拮抗と獲得の仮定により自己が獲得できるとすれば、生に積極性を持つ者こそが自己を保っていられるということになる。そこまで”頑張らなくては獲得できない”話だろうか。もっと緩やかに生きている状態も存在するのではないか。
柳のような生き方が存在し、積極的に生きる者は何らこの生き方を批判する権利を持たない。万人が、本来的には万人の、その人がそう生きようとした姿を批判する権利を持っていない。持ったとしても、あくまで等しい立場であり、優劣を生じるようなことはない。塵に過ぎない我々は、塵でしかないからだ。あくまで、「自らそうした方がいいと感じる/信じる」が無数に存在するのみである。
往々にして、この「自らそうした方がいいと感じる」が尊敬しない他者の解釈のうちに飲まれ、咀嚼され「把握された領域」となり、他者の領域がそれを凌駕するような感覚を覚える時、人は自己効力感を失うような心地に陥る。そう感じさせることのないように、僕がいたずらに相手を「解釈しきる」と感じさせることのないように留意したい。
そのために、自己実現が為された生き方が一般的となった社会を、僕が定義するための境界線(目標)を、あくまで自己と他者が分離している、お互いに理解しきれないという前提で設けなければならない。その作業は、今後僕が向き合わなければならない解釈限界である。物理的構造的知の一方で、言語的形而上的知の課題が、ここに横たわっている。
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