見出し画像

人間の角

2021.11.27

 昔から、僕は人間について2つの見え方がある。なぜか顔と名前を覚えるのが苦手なのはもしかしたらこれが原因かもしれないのだが、肉体や顔の造形をそこに見る時と、存在の膜のようなものをそこに見る時がある。表面に表出させている「自己像(=アウトプットの結果としてのコミュニケーションの総体)」が膜としてあり、その内側にその人が持つ固有世界としての「存在」が満ちているという図だ。また、その「存在」の当人にとっての定義と、実際の「存在」とがずれていることも目につくことがある。時々、その膜の内側に深く世界の広がっている者や、一見して世界が見えにくくなっている者がいて、そういう人を見ると深く覗き込みたくなる。また、その「存在」を僕が正しく認識できていない、「存在」をこのようなものだと思い込みたくなったときに、その人とはうまくいかなくなる。
 これが人に共通の現象なのか、僕固有の現象なのかはわからない。このことについて、人と話したことはない。ただ、少なからずこの捉え方によっていくつかの人の挙動を説明できること、また、このことがメタ次元に持つ意味について考えてみることができる。
 先ほども述べたように、往々にして表出させている「膜」と、その膜に本人が映し出していると思っている「存在」との間に乖離が生じている場合がある。この乖離が肥大化の方向に過剰である場合、「膜」はとても角張った印象を与え、その「存在」の形に合っていないコミュニケーションのハネ、棘のようなものが周囲の空気に突き刺さる。この瞬間、僕はなんとも言えない羞恥に襲われ、形而上学的世界に入り込んで、その棘を抜きたくなる衝動にかられる。彼は、自らの存在よりも膜を大きく見せようとしており、彼の中でコミュニケーションから反復した「存在」は拡大されたものとなっている。しかし、実際のところ、その存在を満たすだけの知見や自信の力にはあふれておらず、コミュニケーションだけが空虚な棘となって空間に取り残されているのだ。
 逆に、その存在そのものが威厳に満ち溢れて存在していながらも、そのコミュニケーションが委縮している場合も稀であるが存在する。恐らく彼は環境を変えた方がいい。その「膜」は内側からの膨張圧力に耐えかねているのであり、往々にして彼の表情は思い詰めており、抑圧する人間への憎しみと恐怖に満ち溢れている。
 人は自らを認識し、さらにその存在を自ら思う形に拡大・あるいは凝縮していくために努力する。その像は極力ずれていないほうがいいわけであるが、認識においてはあくまで認識であるので、いくらでも自己像を肥大化することができてしまう。それは「語ること」によって自己認識のうちに実現しうるからだ。しかし、それを超えて「本質」と呼ばれるものが、これはもしかすると僕の錯覚かもしれないが、その人その人に唯一性を持つ変数として割り当てられているのではないかという気がしてくる。これはややもすると差別かもしれない。あるいは、その本質をきちんと見極められるようになるとき、人が誤った区切りで差別してきたものに、唯一性のある説明が生まれるのかもしれない。
 そして、その「本質」の説明は非科学と呼ばれる領域が説明責任を負っているかもしれない。すなわち、その人がそこにいる理由であり、縁であり、神によってか、進化の過程によってか、少なからず私たちの物質界ではない次元の原則である。ただ、ここまでの観測によって明らかになったことは、仮に私たちにある程度メタ次元の法則が働いていたとしても、私たちの側からその法則に対して働きかけることができるということだ。私たちから、それらメタ次元の作用に対して働きかけることができる。これは気の持ちようによってか、心を澄ますことによってか、他の何かしらの動作によってか不明だ。
 自己がなぜ自己として認識できるようになっているのか、そしてその存在がなぜ「本質」よりも肥大化したり縮小したりするのかは謎だ。(可変性とは、そのギャップに対して存在を満たすことによって生まれるのかもしれない?)人とかかわりながら、まだ見極めていきたい人間の神秘である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?