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少数の悪意とその連鎖について

2021/11/15

 少数の悪意は多数の善意によって構成されたコミュニティを滅ぼしうる。今般参加していたコミュニティで改めて認識した。それは悪意の伝播という形でも起こりうるし、善意=社会契約に根本から疑いをかけ、万人が自然状態ではないかとの疑念を持たすことでも起こりうる。言い換えれば、誰かの発言が確証なくその通りの意味を持つための信用の土台を崩しにかかるとも言える。こうなれば、たちまちにして、隣人は武器を持つ者と同義にならざるを得ないのである。通り魔ではなく、隣人の武器から身を守るためには、扉を堅牢にして関わらないようにするほかになく、それはコミュニティ=互いの契約によって何かの目的性・志向を実現する集団、にとっては致命的な状態である。

 故に、悪意を持つ者は隔離されるか、悪意を持つ者がそれを実現できないようなオペレーションが組まれなければならないし、そもそも悪意が生じないように注意を払わなければならない。(ここでいう悪意とは、裏付けなしに人を傷つけんとする精神や、結果として人を傷つける行為を為す際に、客観的な思考を試さない放棄を指している。)然しながら悪意は妬み嫉みによって、またコミュニケーションの種類の別によって生じ得るから、つまり人間が複数そこにいるだけで自然発生するものであり、どちらかといえばこれをどのように転がしていくかという人間の精神の修養が求められる。また、受けた悪意は悪意となり吐き出される場合が大きい。そして、一人がコミュニケートする相手は一人ではない。指数関数的に、悪意は駆けまわるわけである。であるからして、受けた悪意については心に留め、連鎖の起こらないような環境へ寄与していくことを心がけたい。そして、上記のことは存在してしまった悪意に何らの妥当性も見出すものではない。存在している悪意についてはこれが実行されないよう努力できることがあるならしたいし、すべきではないかとも思っている。

また一方で、次善策として、自然発生しなかったはずの悪意を極力減らすオペレーションとは何かを考えることもできる。そこに、人間が人間として衝突する以外の構造的欠陥はないか。つまり、特定の人間を無根拠に排斥するオペレーションになっていたり、無根拠に自己実現を奪うようなオペレーションになっていないかを点検しなくてはならないと考えている。その文脈からも、生活手段としての富の偏在は是正される必要のある問題として本来槍玉にあげたい。私たちは私たちの経験に基づき、自己実現を図ろうとするが、一方で潤沢な生活手段は一部の選択結果に対してしか開かれていない。その選択は偶然の産物であり、他の自己実現を図ることに道徳的な謂れは本来ないはずである。であるにも関わらず、生活手段としての富の偏在を一般的普遍的な努力の結果としてみなす風潮が跋扈している。それは自己実現を志向する社会において、経験に対しての、その他者がその他者たらんことを願った結果への差別と言わざるを得ない。

善意によって思索し、行動するもののコミュニティが守られるように働きかけたい。そのためには、万人の自己実現を願う必要があるだろうし、悪意がどこかに芽生えたとすれば、それが連鎖することのないよう、自らが大海となる心地でその悪意を消化することも時に必要となろう。知は上位の次元を提供するし、鳥瞰することで解釈のうちに消化できることもあろうかと思われる。日々泰然自若として自らが悪意の発信源とならないためにも、常に先んじて学ぶ者でありたい。

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