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フェミニスト諸氏にはもっともっともっと頑張ってほしい話

2021.11.19

 今般、Twitterで”ホット”な話題となっている、「温泉むすめ」の炎上とその妥当性、フェミニズム、性差別の捉えられ方について(男性であるので諸氏からすれば”専門外” “外野” “オス”かもしれないが)論考を試みたい。

 なお、問題の概要については、下記ニュースをご参考にされたい。
https://news.yahoo.co.jp/articles/fd689727f9c5e6a188483352f818906a2ed5103e

 ここで提起されている問題は、実は2つある。この2つは異なる次元に位置しており、混同すると議論にならない。1つは、「性的な表現が公になっていること、その表現から受ける印象・妥当性」であり、もう1つは「その表現が公に出ていることでもたらされる影響」である。

 さて、フェミニスト諸氏の闘争の最終目的を、ここでは性的搾取/性犯罪の撲滅と仮定する。大きな反対意見がないといいのだが、一旦「その批判活動をするための最終目的は何か」を置いて論じたい。目的がないかもしれない行動には論理的一貫性がなく、妥当性を語ることができないからだ。(例:目的なく石を投げる者の行動は、人に当たれば害はあるが、その者の行動原理に照らして妥当であるか否か、基準に照らして善であるか悪であるかという問いの対象にはならない。目的なく、石を投げるというモーションをとっているだけだからである。)

 そうなると、前段に2つ挙げた問題について比重が高いのは後者ということになる。「性的被害の撲滅→性的被害の要因追求→性的な表現によって揺らぐ倫理観→性的表現の撤回要求」となり、後者が独立、前者が従属する論理的過程を辿ることになる。そうなれば、「温泉むすめ」の是非は、それが犯罪にどれほど寄与するかという点から問われなければならない。これは、広く一般にどの表現も良いと言えるものではない。確かに性的搾取を容認するような、扇動するような表現はどこかに存在するのかもせず、筆者も性犯罪は撲滅すべきであると考えているから、それは教唆行為の類として立件しなければならない類のものだと考える。厳密には、表現の可塑性がある以上、Aがいいからアニメ全般いいだろうとも言えないし、アニメ全般がいいからBがいいとも言えない。

 果たして「温泉むすめ」の当該表現は、性犯罪を教唆するものとして世に放たれ、実際にその効果を持っているだろうか。「持っているだろうと思われる」というのは、公的にそれを取り下げさせるに至る主張として危険である。実際に発奮する者がおり、その者によって性犯罪や搾取が引き起こされ、またそれを容認するような世情になっているのだとすれば、1人でも被害が出る前に直ちに取りやめさせるべきかもしれない。僕たちは1人残らず、罪のない市民の安全な生活をお互いの社会契約で保証する必要がある。もし、その因果性が納得のいく形で呈示されるのだとしたら、これは社会問題としてたしかに提起しなければならず、いくらそれに愛着を持っていた者がいたとすれ、被害者を出していいという話にはならない。だが、筆者が認識する限り、またエゴサする限り、この関連性を裏付けるデータ/エビデンスは示されていない。

 また、仮に特定の特徴に発奮する者がいたとして、キャラクターは何かしらの特徴を誇張した設定を付与されているわけなので、こうなると全ての「キャラクターに付与される特徴」について、それが独立変数となって犯罪が引き起こされないか点検を要することになる。性的な言動が明らかに発されているキャラクターのみの点検でいいとすれば楽だが、性的な言動がないキャラクターが犯罪を誘発していないと言うこともできない(悪魔の証明)わけだから、そうともなれば論理的には全てのキャラクターの全ての性的要素について点検を要求しなくてはならない。(完全な余談だが、かつてゼ◯ダの伝説のガ◯ンドロフと、ポ◯モンのミュ◯ツーが性的関係にあるという設定の二次小説が一部界隈で存在した。温泉むすめにはそのような二次創作はないかもしれないが、むしろこちらの方がひどい発奮を催しているとも言える。かといって、このことが性犯罪を誘発しているかと言われるとそれもまた検証の方法がない。発奮を全て点検するとなるとここまで掘り下げていかなければならないわけである。)

 性犯罪を犯す者がその行動に至るまでのいくつかの要因のうち、もしキャラクター表現への性的発奮が有意性の高い変数でないとすれば、これはシシュポスの神話のごとき作業である。まず不可能と言って差し支えないし、その点検作業を容認できる体制が整うこともないだろう。為せない大義は罠である。為せない大義は、常にそこに身を置くという義務感への応答と、それが果たせないということの責任感への応答を、停滞を是認する形で両立する。

 前段を踏まえ、ここに筆者が呈示したい問いは「フェミニスト諸氏が為せない大義の状態に嵌っていないか」ということである。社会問題に声をあげる人は依然として少ない。人が生まれながらにして差別されず、身体的危機に陥ることなく、十全にその人生の生き甲斐を全うできる社会の到来に向け、考え、声を上げて人に訴え、行動を起こす者は絶望的に少ない。だからこそ、こんな点検作業に身を投じて、目的からの応答性をそこに求めて欲しくないのである。

 性犯罪は物理的に引き起こされ、精神的に加害されるものである。この後者の部分については、表現から犯罪を受けた者が感じるものであり、必ずしも攻撃的意図を発していないこともあり、攻撃的意図のない文脈では会話が広く成立していることもある。であるからして、問題は前者である。街で起きる犯罪を抑止するためにできることはなんだろうか。紐解いていけば、一アニメの一キャラクターの表現に対する発奮よりも働きかけるべき、実効性のある変数があるはずだ。そこに対して無力だというならば、協力要請をするのは妥当であるし、それこそ加担は市民の義務でもあろう。

 無知や不理解が罪であることを、声高に訴えてきたのはフェミニスト諸氏である。僕たちが気づいていない被害、明らかになっていない事実関係を認識すべきであるとの訴えを誰よりも起こしているのは彼女らである。だからこそ、その訴えがきちんとした変数に響いているか、その点検作業は怠って欲しくない。もっともっともっと頑張って、犯罪のない社会となるよう知見を共有してほしい。

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