ブログ開始宣言

2021/11/14

 全能とはすべてのことが可能となるような道筋を知っている状態であって、全知は全能を包含している。人は、今すぐにその遺伝子情報を意図的に変異させて空を飛ぶことはできないけれども、そのための方法はどんなものであるかを解明しようと努力することはできる。一生に読める本の文字数を理論的に考えてしまえばおのずと限界が見えてしまうが、そんな浪漫のないことをいっても仕方がない。ここで重要なのは、「全知への道は開かれている」ということだ。全能となる想像はすぐにできないけども、全知へ向かう努力はすぐに着手できる。

 着手できるからといって機械のようにすぐ切り替えができるわけではないという点についても、人間が人間たる余地ではあると思うが、考えてみれば生物的に合理的な行動から、私たちの自己実現は切り離されている。生命維持に必要な行動は、食べて、寝て、生殖して、という身体に紐づいた行動であるけれども、何か事を為すと僕たちが考える時には、生命維持活動からすれば余剰な行動がほぼ介在しているのではないだろうか。形而上的感覚が満たされるというのは、いったいエサを欲するという観点からしてどのような機能なんだろうか。何べんも当てこすられてきた疑問ではあるが、ここに人間と他の動物との圧倒的な差異が存在する。

 人間に生まれたからには知を目指すのが浪漫、と僕は考えている。その考えは幼少から極を目指せという親の教育によって叩き込まれているのかもしれないし、何かしらの遺伝子の配列が、僕をそのように駆り立てているのかもしれない。この浪漫に従って行動しているときもあれば、得てきた知識の集積だけで漫然と過ごす日もあり、必ずしも賢人として生きてきたわけではないけれども、知ることは善なることと信じているので、鍛錬を怠らぬよう生きていきたい。この鍛錬を怠らぬよう生きていきたいという感覚は、それがすでに僕の僕たる偏りを伴っているのであり、僕は「生まれながらにして自己実現への道筋が開かれている社会」の到来を待ち望んでいるけれども、人がどのように存在したいかということについても、僕が思う状態と僕が実現した後の全人類が内に抱える状態は異なるのだろう。ただ少なからず、その「意志」さえも客観性を損なうものとして否定してしまえば、万物が無意味に帰るという罠に陥ることになる。

 師(ニーチェ)はここにたどり着いたのだろうと、ふと思想を思い返しては思うのだが、無意味性の罠を超えて、改めて生を肯定し自らの内に意味を持つという結論から、彼の死に際の様子はかけ離れていたような気がする。意味を見出した状態が、永劫回帰(万物は一転して同じことを繰り返すと仮定することで、すべてのものはただの配列の変化であり、根本的に無意味であるという世界観)に包含されていることに絶望したんだろうか。確かに、ありとあらゆることに意味をわざわざ見出さなければ、すべてのものは根本的に無意味であるけれども、例えば上空へ飛び続けたら拡散する宇宙へ向かうのであり、その宇宙にも外はあるのだから、配列そのものが無限であり、回帰するまでの期間も無限になってしまう。その意味で、無意味性の根拠を永劫回帰に求めたことが誤謬だったのかもしれない。烏滸がましい徒の独り言である。

 知の入り込む空間を常に開いているため、また新たな知見を生むべくそれらを整理するため、文を書く習慣を取り戻していきたい。久方ぶりの、そして幾度目かの、開始宣言の文をここに納める。

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