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冬の夢

 その日の夕方、太陽が黄金色と、刻々色合いを変える青と、緋色の、すさまじいばかりの渦巻きを描きながら没し、あとに乾燥した、葉擦れの音に満ちた西部の夏の夜を残していった。デクスターはゴルフクラブのベランダからあたりを眺めていた。微風を受けて、水がどこまでも均等に重なり合っていた。それは秋の月に照らされて、あたかも銀の糖蜜のようだ。しかしやがて月が指を一本その唇にあてると、湖面はしんと静まり、淡い色合いの澄みわたったプールとなった。

スコット・フィッツジェラルド『冬の夢』

 細かい理屈は良い。ただただ文章の美しさにはっとさせられる。青春の最後の煌めきが惜しみのない流星の如く文章に表出する。迸る若さ。愛と狂気。自信と絶望。未来への渇望や身を蝕むかのような熱情。そうして、湖面に水しぶきを上げた星屑がゆっくりと水底に沈んでいき、音もなく最後の光を失うようにして幕が閉じる。哀しいほどに美しく、痛切な哀しみに彩られる。彼が胸の内に仕舞い込んでいた冬の夢が消えてしまった後では、僕たちの中にあったはずの何かもまた死んでしまっている。
 
 改めて読み返してみると、やはり物語の筋云々より文章の美しさが何より際立っている。というより、主人公の目を通してみる世界はエネルギッシュに生き生きとして、希望や楽しいことがまだまだたくさんあり、何より目の前の恋する女性の特別な美しさに感化されることで、また文章も粒立って湧き出で、眩いほどに輝きを増しているのだろう。最初に読んだときには、抗いがたい夢の呪縛と、二度と戻ることのない喪失が、まず何よりも哀切な印象を残したけれど、いまでは主人公が幾分も留保なしに享受していたその「若さ」なしには、ここまで彼の描いた冬の夢を鮮やかに、リアルな形で現出し得なかったことがわかる。

 夢が終わってしまうエピローグがひどく哀しい。普通の小説なら、そこまで行かずにありきたりな切なさを残して終わっていただろう。彼女は彼を選ばなかった→彼は後悔していない→しかし、それでも彼女と過ごした日々の回想に浸る……。でも、この物語はそれだけで終わらなかった。何年か経った後で、ひょんなことから彼は彼女の美しさが失われてしまったことを知る。あれほど自分を含めた男たちを振り回し、それでも冬の夢として永遠に記録されていた美しさが。それがまったくの他人の、何気ない言葉で砂城が如く崩れさっていく。その崩壊はあっという間に起きて、あっけなく崩れ去った。後には何も残らない。そして彼は、過去や哀しみや心の奥に抱いていたはずの何かさえ失ってしまう。そしてもう二度と冬の夢を見ることさえ叶わなくなる……。

 スコット・フィッツジェラルドの小説よろしく、煌びやかな栄光を手にした青年や永遠とさえ思えるほどの色香を醸していた女性がその輝きを失うことになる。しかし、悲壮的でも絶望的というわけではない。彼らはどこまでもピュアで、神様に与えられた幸運をつかの間抱いていただけなのだ。礼儀的で、知性的でさえある。それでも……彼らは最終的には幸せにはなれない。彼らの家を寝床にしていた青い鳥がふとしたきっかけで飛び去って、もう二度とは戻ってこなくなったように。仄暗い曇天が覆った世界では、明るかった頃の空さえ思い出すことが難しくなる。それでも、どうしてこんな喪失が大切になるのだろう? どうしていつまでも忘れられない小説になるのだろう?
 
 僕らは擬似的に死ぬことを求めているのだ、と思う。もう二度と戻らない喪失を胸に刻み、死んでしまいたいのだと。比喩的だけど、決定的に。美しい夕陽が浮かぶ水平線に向かって、この胸の内に抱いた感情一つ抱え、穏やかな気持ちで歩んでいくように。こういう小説を好きになってしまった後では、僕は読書に対してそんなことを思う。


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