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文字に溺れた私と、目の見えないあの子。身体を愛せるようになった一つのきっかけ

「やっぱり健康が第一だよね」

そう言われる度、ひっそりと傷ついていた。私は身体が強くはない。

早寝早起き朝ごはん。睡眠もしっかりとって、栄養のあるものをバランスよく食べていても、崩れてしまう体調。学校を休むたびにかけられる「体調管理しっかりね」という言葉に、夜中までゲームしていても皆勤賞の友人に、どのように接すればいいのか分からなかった。

先天的な要素で全てが決まるわけじゃない。小さい頃からの身体づくりで補える部分もあったのかもしれない。あの頃の私に会えたら、一緒に運動しようかな。でも今の自分が好きだから、あまり過去を変えたくはないかな。

私は本を沢山読んだ。本を開けばどこまでも行けた。小さいころは、虫たちと大きな桃に乗って旅をしたり、ガラスのエレベーターに乗って宇宙にも行ったりするのが好きだった。自分の身体に煩わされないのは、幸せだった。具合が悪くなって本を閉じても、誰も私を責めなかった。本の中の世界は、いつまでも私を待っていてくれた。

私は文字だけの世界で生きたかった精神だけの存在になりたかった


そんな私にあるとき、目の見えない友だちができた。ここではAという名前にしておこう。

「車が来ているから、危ないよ」

そうAに注意されたことが何度もある。最初の頃は、「車の音で気付くから、壁とかで視界を遮られる場所では私の方が早く気付くのかもね」と言っていたAだけど、あまりにも私が危なっかしいから不思議に思っていたらしい。あるときAは気付いた。「あなた、もしかして、文字情報読み込みすぎ?」

確かに、私は、目に入ってくる文字を片っ端から取り込みながら歩いている。電柱の番地名、選挙ポスター、道路標識、自動販売機のなかの飲み物のパッケージ、ビルの5階の看板は文字がぼやけている。あれは何て読むんだろう。そんなことにばかり気をとられて歩いているから、他の情報を取り込むことが疎かになってしまう。そういえば小さい頃、「ぼーと歩かないで!」って怒られたこともあったっけ。「みんな、(私と同じように世界を見ている。それでも)上手く歩けているのだなぁ。すごいなぁ」と思っていたけど、「私と同じように世界を見ている」という前提が、そもそも間違っているのかもしれない。目が見えていても、大半の人はこんなに文字を見ていないのかもしれない。そうか、私は、文字情報読み込み”すぎ”なのかも。

私は電車に乗ったり、街に出るのが苦手。上下左右、文字文字文字。情報の波に襲われて、身動きがとれなくなってしまうことがある。文字情報の中で溺れかけている私と対照的に、Aは全身を使って、求める情報が来るのをじっと待っている。一本釣りの漁師みたいでカッコいい。

Aを師匠に、私は目下修行中である。あたたかさ・つめたさ、匂い、風の流れ、音。文字になっていない情報が、こんなにも豊かであることを、私は初めて知ったような気がした。文字を習得する前は、私もこの豊かさを知っていたはずなのだけれども。

Aが見ている世界を覗きたくて、Dialogue in the Darkにも行ってみた。一緒に行った友だちと手を繋いで暗闇を歩いた。手の肌触り、温度。「私たち、めっちゃ手のかたちが似てるね!!」と笑いあった。彼女の手を、今まで何度も目にしていたはずだけれど、気付いていなかった。私が得てこなかった情報だった。


「筆者さんの視点が優しくて、あたたかくて、いい本!全人類読むべし!」と勧められて、伊藤亜紗さんの『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)を読んだ。

以前の私もそうであったように、大半の”見える”人は、見える人の基準で、”見えない”ことを捉えようとする。見えないとは、見えるの反対。見えないとは、目をつむっている状態。見える=便利、見えない=不便。見える=ふつう、見えない=欠落。といったように。

見えない人が見ている世界は、こんな単純な裏返しのなかに収まるものではない、というのがこの本から伝わってくる強いメッセージ。本を開いて最初に目に入る福岡伸一さんの推薦文が、この点をズバッと言い表している。

<見えない>ことは欠落ではなく、脳の内部に新しい扉が開かれること。

この社会の大多数の人間が持っているものを持っていないこと。多数に合わせて設計された社会のなかで、少数者として生きること。それは確かに、不便さや窮屈さがある。多数派が享受しているものを得られないという点において。

だが、ひとりの人間として、一対一で向き合ってみるとどうだろう。一対一だと、多数派/少数派という括りは意味のないものとなる。そこで立ち現れるのは単純な”違い”だ。優劣とか、前後とか、高低とか、そういった評価が関わらない、単純な”違い”。

”違い”から生まれるのは、「あなたはこの世界をどう捉えているの?」という問い、そして、「私はこの世界をどう捉えているの?」という問い。

この本は、言葉を巧みに操ることのできる筆者が、「目の見えないあなたは、そして私は、この世界をどのように捉えているの?」という問いに向き合った記録だ。

読み終わって私も思った、「全人類読むべし!!」(最後のページに、「視覚障害、肢体不自由などを理由として必要とされる方に、本書のテキストデータを提供いたします」とある。こういう工夫を積み重ねていったら、全人類がこの本を読める日も近い気がしてきた)



私はAと共に過ごすことで、自分がどのようにこの世界を捉えているのか、少し掴めるようになった。そして、この世界を捉えるのには、他にも様々な方法があることも知った。身体が果たす役割を肯定できるようになった。

Aと私はよく、川べりに座って、日向ぼっこする。何かを話すこともあれば、話さないこともある。ただ一緒にいるのが心地よい。身体ってすごい

文字を使って、私たちは死者とも、現実には存在しないキャラクターとも出会うことができる。それは人類の文明が生み出した、素晴らしいこと。(Aは「本を読むのが好き」と言っていたのだけれど、そういえばAにとって”読む”とはどういう行為なのだろう。今度聞いてみよう)

私たちは、言葉にできないものを共有することもできる。これは身体を持っている間しか、生きている間しかできない素敵なこと

私は身体を愛せるようになった。せっかくこの世に生きているのだから、この身体を思う存分楽しんでみようと思えるようになった。

鳥の羽ばたく音、お湯が沸く香り、地面の凸凹。

師匠のもとで私の修行は続いている。


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