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あなたの「拠り所」とは?ー暮らしを支える”宗教”

Syracuseで仲良い友人の一人、Jahon。

タジキスタン出身で、SUではコミュニケーションや政策を学んでいる。タジキスタンの中央銀行で働いた経験があり、中銀時代は海外の新規プロジェクトで表彰されるなど、漏れ聞こえる彼の経歴からはとても優秀な人だということが伝わってくる。

でももちろん、彼はそんなことはおくびにも出さない。いつも明るく、ユーモアを交えてよくおしゃべりする。時々どきっとするような鋭い発言をするけど、細やかな気遣いもできる。そんな彼と一緒にいるのはとても楽しくて、授業は全くかぶらないけどお茶をしたり、頼りにしてちょくちょく相談に乗ってもらったりしていた。

ある時、私は私自身が他人から受けた侮辱について彼に話していた。差別やらパワハラ(アカハラ?)やらいろんな要素が混じっているが、要するにその人物は私を侮辱し、当時の私は大変怒り、傷つき、そのことに身も心も占められていた。あらゆることを検討したけど、最終的には黙ってやり過ごせない…ということをJahonに話していた。

Jahonは静かな笑みを浮かべながらずっと私の話を聞いていた。そして言った。

「そんなことよくあるよ。相手にしちゃだめだ。気にしないことだよ」

私:「なんで?私はこのことをとても見捨てておけないよ。私だけでなく、私の周辺の人たちも含めて侮辱されたんだよ」

彼はまた言った。
「そんなことは、この世の中にたくさんある。今までも、これからも。でも、相手にしないことだ。やり過ごすんだ。それが君のためだ」

私は純粋に、不思議に思った。正義感もあり、ダメなことはダメとはっきりという彼が、今回はなぜそんな風に言うの?今のJahonはまるで凪の大海原のように落ち着いているけど、なんでそんな状態になれるんだろう?

そして聞いた。

「なぜ、あなたはいつも平穏なの?(Why are you always calm and stable like that?)体が震えるほど怒ったり傷ついたりすることもあるでしょう?どうやってやり過ごすの?」

彼の答えは「僕はイスラム教徒だから」だった。

「イスラム教の教えでは、ダメなものはダメ、と小さなころから教わる。人を個人的な理由で傷つけてはダメ、人のものを盗んではダメ、とか。だから、他人がその境界線を越えてきたら、『この人は僕とは違う、僕はこれ以上この人とは関われない』って思う。そしてさよならだ、それで終わり」
それ以上、無駄な争いはしないし、そのためのエネルギーも使わないそうだ。

Jahonは私よりもはるかに長く、アメリカで過ごした経験がある。母国タジキスタンでも若いときから頭角を現していたようだし、きっと私の想像以上に嫌な経験もたくさんしてきたんだろう。その嫌な感情に流されて自分自身を見失いそうになった時、彼の軸になったのが宗教だという。

米国に来てから、宗教を今までよりはるかに身近に感じている。中国人のAliceは中国人クリスチャンのグループに参加し、毎週日曜に教会に通い、教会の仲間とボランティア活動に参加したり聖書勉強会も開いたりする。単にクリスチャン同士というつながりだけではない。18歳で一人で米国に来て知り合いもなく、お金もなかったAliceが路頭に迷いそうになった時、すかさず救いの手を伸ばしてくれたのが彼らだったという。部屋が見つかるまで教会に住まわせて、食事を差し入れてくれたり家に招いてくれたり。グループにはAliceと同年代の子も多く、みなで洋服や日用品を融通しあったりもするという。何か困ったことや疑問があれば中国人クリスチャンのネットワークに相談すると、すぐに回答が返ってくる。物資も精神面も含め、いざというとき頼りにできるという安心感がある。

アフガン人のBeheshta、Sadaf、Zuhalも敬虔なイスラム教徒だ。彼らはとても仲が良く、いつも一緒にいる。かといって周囲に対し排他的なわけではない。誰に対してもいつも朗らかで明るく、オープンに受け入れてくれる。異文化や習慣についても興味津々で、「日本で今一番人気のある男性シンガーは誰?」「日本人のような肌になりたい!スキンケアを一から教えて!」等々、話し出したら止まらない。ラマダンやイードなどイスラム教にとって大事な習慣はその都度全員が集い、カーペットを敷いたバルコニーで花やキャンドルを美しく飾り、何時間もかけて一緒に作ったアフガン料理をにぎやかなおしゃべりとともに楽しむ。イスラム教徒ではない私も何度も混ぜてもらったことがある(余談だけど、アフガン料理はとてもおいしい。周辺地域・国の人がみな『世界一おいしい』というけれど、決して過剰表現ではない)。

ご存じのように、彼女たちは現在、母国アフガニスタンに帰ることができない。時々、「自分の国にもう帰れないってどんな気分かわかる?母も弟もそこにいるのに会いに行けないのよ!」と悲鳴のように叫ぶこともある。私には、彼女たちの本当の苦しみや辛さは想像もできない。だけど彼女たちは異国にいても、その心情を分かち合い、母国にいるときと同じような習慣や考えを分かち合う人たちがそばにいる。出身もだが、同じ宗教でもつながっているからだ。


イードのお祝いの食事。長時間かけて皆で調理し、一緒に食べて祝う。



宗教はコミュニティだ。同胞とのつながり。同じ価値観の共有。そして、いざというときのセーフティネットであり、心の拠り所だ。

JahonやAlice、そして「アフガンガールズ」の姿を見ていると、私にはこんな言葉が浮かんでくる。私は宗教を否定はしないが、特定の宗教を信じているわけでもない。今ここSyracuseでは、私以外の日本人大学院生にも出会えていない。そして、そのような”拠り所”を持たない私がとても不安定な、心もとない存在にも思えてくる。嵐の中でも揺らぐことのない信念、拠り所、セーフティーネットを持っている彼ら、彼女らがうらやましくなってくる。

京大名誉教授で宗教学者の鎌田東二さんが仰っていた(朝日新聞夕刊、2023年6月14日より)。「信仰心のある人のほうが逆境に強い」「信仰は心の平安に作用する」と。友人たちの姿を見ていると、その言葉に深く納得する。

「宗教」は最近、話題のトピックだがタブー視されているところもある。けれど本来は個人の心の安寧を支え、その人がより伸び伸びと生きることができるように助ける存在のはず。

私の友人たちからは日常に自然に宗教が溶け込み、寄り添う様子がうかがい知れた。宗教のあるべき姿を教えてもらった気がした。


ヘナのハンドペインティングをお互いに施すアフガン人の友人

鎌田先生は記事の中でこうも仰っている。
「自分の死生観を含めた生き方を尊重するには、相手の考え方も尊重しなければなりません」

これも友人たちから教わるそのままだ。国籍や宗教が違っても彼らは自然に私を受け入れてくれ、必要なら助けの手を差し伸べてくれる。逆もまた同じだ。

宗教でも文化でも、国籍、性別、思想信条、それぞれ違いがあるのは事実。違いを受け入れ共生する道を平和的に探ることを手助けするのが、宗教の役割の1つでもあってほしい。対立を煽るのではなく。

まあ宗教というよりは、いろんなことにすぐに影響を受けて揺らぐ私の個人的な弱さの問題なのかもしれない。でも人間はそのように揺らぐ弱さを持っているものだし、だからこそ宗教に限らず何かに心の拠り所や軸を求めるのだろう。揺らぎを楽しみつつ、揺らがない強さも育てていきたいと思う。

(この記事に出てくるのはあくまで個々人の事例です。個々の環境や性格等によって状況は異なります)

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