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【短編】月光症候群

 海松の茂みに身体をあずけて、ぼくははるかな水面を見上げていた。ぼくにとっての〈空〉。揺れるそれが碧く見えるのは、本物の空の色を映しているからだ。右手を空に伸べると、海松の葉から細かな気泡が立ちのぼった。いくら望んでも、この手は届かない。
 小魚の群れが螺旋を描きながら水面に昇ってゆく。いっせいに向きを変えるその身体が、銀に耀いた。彼らはどこへゆくのだろう。ぼくは指の間から〈空〉を透かし見、ぼんやりとそんなことを思った。
 空はひと時として同じ色をしていないという。やがてそれを映す彼方の水面が鮮やかな珊瑚の色に染み、遠くのほうがだんだんと深海の色に近くなる。
 小魚の群れが頭上を渡り、〈空〉が翳った。月の光を浴びすぎると、魚たちはその蒼い光に魅入られてしまう。そうして、水面に向かって群れをなす。上へゆく力のないものは鱗が透き通るにつれて泳ぐ力を失い、深い底で冷たい流れに身をゆだねる。月光症候群。
 ぼくは身を起こしてようやく、傍らに座っているものに目をとめた。
「白亜」
 色を深める〈空〉に目を向ける少年は、名を呼んでも気がつかぬようだった。
「白亜」
 もう一度呼ぶと、ようやくゆるやかにこちらに顔を向ける。冴えた月光が水面から差し入り、陶器のごとき頬をなでた。明日は満月だ。
「どうした」
 問うても、白亜はその瞳にぼくを映すばかりで答えない。緑柱石に似た瞳の色は〈聲〉を持つものの証。
「また、具合が悪いのか」
 ゆるゆると首を振ってから、白亜はふたたび〈空〉を仰ぐ。水面に映った大きな月の中で、小魚たちが描く螺旋が銀のすじとなって流れた。
 白亜は目が見えない。しかし、視力の代わりに〈聲〉を授けられた。あるいは、〈聲〉を得た代わりに視力を失ったというべきかもしれない。白亜と同じように〈聲〉を有した緑柱石の瞳のぼくの兄は、耳が利かなかった。もう、ずっと前に海神のもとへ行ってしまったけれど。彼らのように〈聲〉を持つものは、満月の夜に上へ――〈空〉の向こうへ行き、唄うことができる。
 見えなくても、不自由はないらしい。白亜はものにぶつかることもなく、動きまわり、ぼくに手を伸べる。なにか、あたりを知るすべがあるようだった。そういえば、白亜は誰より耳が聡い。
「魚たちが昇ってゆくようだね」
 白亜の小さなつぶやきに、彼の向くほうを見やった。症候群におかされた魚たちは、たゆたい、やがて月に昇る。
「昇ってゆく。気楽なものさ。なにを夢見ているのやら」
 ぬるい〈風〉が流れ、ぼくらの前髪を揺らす。海松の茂みからも、数匹の魚が気泡をともなって昇っていった。ふと下を見れば、深みにいる大型魚が眼を光らせながら回遊するのが見える。きっと今夜は、もう少し月が昇れば海亀たちが群れる珊瑚の原まで見渡せるだろう。
「こんな夜は、上へ行きたくなるんじゃないのか」
 近ごろ身体の調子が悪いという白亜は、前の満月には上へ行かなかった。白亜の横顔を見やると、瞳がわずかに揺らいだ。
「ねえ東雲。どうして〈空〉ばかりを見上げているの」
「白亜だって、いつもそうしている」
「でも、ぼくには見えていないから。何が見えるの」
 水面に目をやると、すでに濃い色に変りはじめている。くらげが水面に近いところを漂うのが見えた。太陽が姿を消せば〈空〉は海神の住まう深海と同じ色になる。月のない晩には、質量をもった闇があたりを押し包み、目など用を成さない。
「世界が揺らぐのが見える。〈空〉は……ぼくにとっての世界の境界。白亜。上にはどんな世界があるんだ」
「やっと、訊いてくれたね」
 これまでぼくは、揺れる水面のその先にあるものを白亜に訊いたことはなかった。どれほど素晴らしいものが広がっていようとも、ぼくには触れることのかなわぬものだ。
「上ではがらんどうな大気がぼくを包む。それはぼくののどを通って胸に入り込み、〈聲〉を伝えるんだ。〈石〉がのどを震わせ、大気を渡ってゆく」
 いつになく、白亜は饒舌だ。白亜の言葉はぼくに沁みこみ、目にしたこともない情景を思い浮かばせた。
 がらんどうな世界。自らを包むものがなにもない世界で、白亜は〈聲〉を響かせる。ぼくにはない胸の空洞に大気を満たし、〈石〉を震わせて。その唇は珊瑚より紅く、肩やひじは骨のかたちをあらわにするのだろう。
 月だけが、それを見ている。冴えた月光は、色素のうすい白亜の身体など透りぬけてしまうにちがいない。
「空は、どんな色を」
 言いかけてから、あわてて言葉を切る。白亜は寂しげに微笑んで手を伸べ、ぼくの瞼に触れた。
「こんなに見る力がほしいと思ったことはないよ。東雲に、何も伝えてあげることができないなんて」
「ごめん」
「なぜ謝るの」
 白亜はわずかに身を引いて、身体の力を抜いた。白い身体は浮き上がることなく、海松の茂みに沈みこむ。
「唄ってくれ」
 はじめての頼みだった。ぼくは期待して白亜の瞳をのぞきこむ。ここで、彼の唄うさまが見られたら。その声が聴けたなら。しかし、白亜は首を横に振った。
「聞くにたえないよ。きっと声がわれてしまう」
 言い終えないうちに、咳をはじめる。激しく咳き込みながら白亜の口はいくつかの気泡を吐き、ぼくは思わず彼を起き上がらせて背を撫でる。白亜の咳はたいていすぐにおさまるが、ぼくののどでするそれとは違って断続的に身体を駆け上がる。その様を見るたびに、白亜が自分の知っているものではない気がして少しだけ恐ろしくなる。
「月光症候群なんだ、ぼくも」
「夢におぼれて、月へ昇るのか」
 からかう調子のぼくの視線をさけるように目を伏せて、白亜はたちのぼる気泡のごとく言葉を吐いた。
「〈石〉が震えてる。わかるんだよ。でも、重くて……〈石〉が重くて、きっと空へは昇れない。沈んでゆくんだ」
「寝ぼけたのか」
 白いのどをあらわにして、白亜はそれをわずかにこちらに突き出した。自然、白亜は〈空〉を見上げるかたちになる。ぼくは差し出された白いのどに触れ、指先に小さな異物感を感じた。
 ぼくにはこのかたまりがない。〈聲〉を持つもののみが有することを許されたものだ。〈石〉があるからこそ、白亜の〈聲〉は大気を震わし得る。しかし、以前に触れたときよりも小さくなったように思われる。
「鱗が透きとおってきている。……ね。もうすぐ泳げなくなるよ」
「白亜、〈石〉が」
 かすかにうなずいた白亜の目から、なにかがこぼれた。それがなんなのか、ぼくは知らない。ただ時おり、それは白亜の目からあふれてくるのだ。
 目から落ちたものが、白亜の下肢にあたって砕けた。その様を目で追うと、白亜の鱗は青く燐光を放っていた。
 彼の言葉どおり、透きとおってきているのだ。美しい虹色の輝きは失われてしまった。身体をめぐる血潮の筋さえ透けるようになった白亜の下肢には、古い掻き傷が目立つ。いくつか新しいものもあった。
「この傷はどうした」
「傷。ああ、それはね」
 手を伸ばし、白亜は掌で一番大きな傷跡をおおう。ぼくの目から隠そうとでもするように。
「〈空〉の向こうに出るとね、身体がとても重いんだ。だから、身体を引きずって岩に這い上がると、傷ができてしまうんだよ」
 つかの間、追憶にひたるように水面に目をやる。それはいつもの白亜のしぐさだ。目に頼らないはずの彼は、不思議と瞳をよく動かす。そうして、確認するようにぼくに言葉をなげかけた。
「東雲。上へ行きたいと、思ったことはあるかい」
「あるさ」
「〈聲〉が……〈石〉がほしいと、思ったことはあるかい」
 緑柱石の瞳がぼくを射る。答えるより早く、白い腕がぼくの肩をとらえていた。
「上がどんなところか、見せてあげたかった。行けないんだ、もうぼくには」
 月のあかりが〈空〉に揺らぎながら煌々と降りそそぐ。
「ほかには、誰かに言ったのか」
 白亜は答える代わりに首を横に振る。話すのが億劫なのかもしれなかった。
「なぜ今まで言わなかった。いや、気づいてやれなかったぼくが悪いな」
 目から落ちるものを拭おうともせずに、白亜は口元をほころばせた。笑っているようだった。
「言えないよ。そうやって東雲は、自分を責める」
「白亜。いつからなんだ」
「気がついたときには、〈石〉が震えていたよ」
「それがなくなれば」
 ふたたび右手で白亜ののどに触れた。かたまりは重さを増し、その反対に小さくなってゆく。
「重さがなくなれば、沈まずにすむんだろう」
「そのときは、月へ昇るんだ」
「どうしろというんだ。どうしたらいい」
 両の手でぼくの手首をつかみ、白亜は少し笑った。
「もう、方法はないんだ。どちらに、しろ、ぼくは……」
 白亜の声は、ますます細く、途切れがちになる。
「白亜」
「唄うことは、できないん、だ」
 掌の下で、〈石〉が震えた。
 こんなに月が明るいのに、深い底からうすい闇が這いのぼってくるようだった。無駄だと知りながら、それを払うように下肢を動かす。そうしなければ、白亜が連れ去られてしまう気がした。
 下肢の動きでおきた弱い〈風〉が頬に当たっても、白亜は反応を示さなかった。
「助けたい」
「症候群からは、逃れるすべが……ないんだよ。知って、いるくせに」
「だからって、なにもしないのか」
「わかってよ、東雲。――ああ、目がかわく」
 白亜は目を閉じて手を伸ばす。掌でぼくの髪を撫でた。
「東雲の髪は、どんな、色をしているの」
「闇の色。月のない夜の色だ」
「きっと……きれい、なんだろうね」
 うすく目を開けるとともに、白亜の手は力なく落ちた。その目に何が映っているか、ぼくにはわからない。
「ねえ東雲。海神が、腕を広げて、ぼくを待ってる――」
「……白亜」
 つぶやいたとたんに、ぼくの目からなにかがこぼれた。白亜の頬で砕けたそれがなんなのか、知らない。知りたいとも思わなかった。
 白い首に腕を巻きつけ、頬をよせる。白亜を海神の処へなど行かせたくない。耳が触れた。それだけで十分だった。白亜の鼓動がまだ、かすかに伝わってくる。
 ゆっくりと、白亜はぼくの腕を逃れた。毒でしびれた魚のような緩慢な動きだったけれど、ぼくはそれをとどめることができない。彼は言うことをきかない身体で、苦心しながらこちらに背を向けた。
「どこへ行くんだ」
「帰るよ。棲み処へ」
「そんな身体で。ここにいればいい」
「だって、明日は満月、だもの。上へ、行かなくちゃ」
 上へ行くことも、唄うことも、もはやできないのだと言ったのは、彼自身だった。それなのに。
「なぜ」
「東雲が、聴きたいと、言ったから」
 その言葉を残して白亜が闇に紛れるまで、ぼくは動くことができなかった。伸ばした手が、彼に触れることなくすりぬけてしまいそうな気がしたからだ。手を貸すことも、引き止めることもせずにぎこちない動きを目で追う。やがて白亜の姿が見えなくなると、海松に背をあずけて水面を見上げた。そうしてやっと、白亜に向けての言葉が浮かぶ。行くな。もう、見たいとも、聴きたいとも言わないから。
 次の夜になって満月が昇っても、白亜は姿を現さなかった。彼が寝床にしている岩の窪みも、海草の天蓋の向こうも、珊瑚の原も見てまわったけれど、そのどこにも白亜の姿はない。
 透きとおりはじめた鱗で、傷ついた下肢で、どこに行けるというのだろう。すでに〈空〉の向こうで、その唄を聴かせるべくぼくを待っているのだろうか。
 白亜。震える〈石〉を抱えて、身体はますます重くなったんじゃないか。新しい掻き傷をつくっていないかい。
 海神は、はるかに深く冷たいところ住まうという。ぼくらはみな、最期には沈んでその腕に抱かれる。では、上へ行ったものたちは。兄は上へ行ったきり、戻ってこなかった。それでも母は、兄は海神に召されたのだとぼくに言う。
 海神は大気の中にもいて、つまり〈空〉の向こうと深海には、ぼくの上と下にはほんとうは同じ世界が広がっているのかもしれない。沈むことと昇ることは同義なのだ。白亜も兄も、それを知っていたにちがいない。
 ぼくは〈空〉を目指して水をかいた。その先へ行けば、〈聲〉を持たないものがどうなるのかはわかっている。
 皮膚がただれ、鱗がめくれ、のどをかきむしり……もがくのもいい。そうして身体は風化し、風に乗り、あるいは水にとけて降りつもるのだ。いつか兄に聞いた、上の世界を白く染める雪のように。
 この髪の手触りをほめた白亜はもういない。ともに、水に帰すことはできるだろうか。
 大気。白亜の〈聲〉を伝えるという大気。もし触れることができたら、彼の唄の名残を届けてほしい。
「目がかわく」
 腕で目をこすり、それを上へ伸べる。月光が水面をすべり、蒼く差し込んでぼくを導いてくれる。月の光がこんなにつやつやしているのだから、本物の月は蜜を塗ったように潤んでいるのだろう。
 あれほどあこがれた〈空〉へ、この手はもうじき届こうとしている。


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