朝日 ね子
ねこのこと
北海道弁や、日常のことばについて
うちにいるねこについての記事です。
よく晴れていて、太陽の光を浴びたら少し気分がマシになった。 2ヶ月ぶりに髪を切った。ちゃんと自分の顔になった。 何がしたいのか、何が楽しいのかわからない。何に時間を費やしたいのかわからない。 何にも時間を費やしたくない。何もしたくない。 だからといって、何もせずいられるわけもなし。日常を淡々と。 淡々ってはかなげでどことなくきれいな言葉だ。漢字で書くとね。 平坦で単調な日々には、楽しみを用意せよと言う人がいる。それがわからないんだって。 このごろは、ぐっ
海松の茂みに身体をあずけて、ぼくははるかな水面を見上げていた。ぼくにとっての〈空〉。揺れるそれが碧く見えるのは、本物の空の色を映しているからだ。右手を空に伸べると、海松の葉から細かな気泡が立ちのぼった。いくら望んでも、この手は届かない。 小魚の群れが螺旋を描きながら水面に昇ってゆく。いっせいに向きを変えるその身体が、銀に耀いた。彼らはどこへゆくのだろう。ぼくは指の間から〈空〉を透かし見、ぼんやりとそんなことを思った。 空はひと時として同じ色をしていないという。やがてそれ
やりたいことも、やらなければならないことも横に置いて、眠ることにした。 快晴を捨てた。自由を行使した。 けだるさが頭にも身体にもまとわりつき、しかし不調とまではいかず、相変わらず健康な休日の朝。 たとえば日々の中で、食事、睡眠、運動のどれを最も重視するか。 私は絶対に睡眠だ。逆に言うと、睡眠が調わないとてきめんに心身に違和感を生じる。そしてそんな違和感は、一度感じてしまうと容易に解消できない。 だから睡眠の時間も内容も充実させたい。しかしそうもいかないことが多々
秋分を幾日か過ぎた夕方に、うさぎが現れた。 姉から写真とともに「なんかいる」と送られてきた。 最初は隣の家の馬屋のあたりをうろうろしていたが、そのあとうちのほうに来て、しばらく家のまわりを見てまわり、知らないうちにいなくなったそうだ。山に帰ったらしい。 毛色は白に少し茶が混じりはじめ、まだらだった。耳は見慣れたペットのうさぎより短い。立ち歩くと、足の長さに違和感を感じるほどだ。 動画も送られてきた。 すたすたと歩き、ときどき辺りの臭いを嗅ぐように顔を上げる。 雪
前提として、歩行者のあまりいない田舎なのだ。 その田舎の町を貫くように通る国道の、センターラインのあたりに落ちていた。ピンク色の細長い風船だった。 バルーンアート用のねじれた風船は、何カ所かくびれていて、少し前まで何かの形に成形されていた様子がうかがえる。 まず、え、なに? と思った。 近づく。良かった、生き物じゃなくてモノだ。 もっと近づく。あ、風船じゃん。しかもバルーンアートの。 通り過ぎてから、最大の疑問が浮かぶ。 どこから来て、なんであんなところに
余白が大切だと言われて久しい。(たぶん) 誰がいつから言ってるのか知らないが、たくさんの人がそのように考えているらしい。 わかるような気もするが、わからない気もする。 このほど、余白について考えてみた。改めて考え込んだわけではなく、ふいに思いついた程度ではあるが。 余白があったらいいな、と思うこと。 時間、空間、頭の中、目に映るもの。 なるほど、なるほど。どこかで見聞きしたことのあるものばかりだが、どれもなんとなく納得のラインナップ。 それぞれが影響し合って
空よりも透明で海よりも深い色。 お気に入りのインクで手紙を書いた。 愛用のペン先はこの店で手に入る一番細いものだ。 「カウンターに物を広げるな。邪魔だ」 店主の言葉も意に介さず、少年は自分の手先に集中している。 「どうせ、他の客なんて来ないくせに。――ビンをちょうだい」 書き終えた便箋を細く巻きながら、彼はどこまでも無邪気だ。 店主は鳥かごや色褪せた書物や鉱石といった雑多なものが並ぶ棚から、洋酒の空きビンを発掘して彼に渡した。用途を尋ねるほど野暮ではない。 ビン
近所のおじさんが運転する白いセダンで出かけた。助手席に私、後ろに姉と叔母さん。 数日前に多めに降った雪が残っている。アスファルト以外の地面はほとんど分厚い雪の下だ。天気が良くて、道路の雪はきれいに溶けていた。気温は低い。 廃屋が雪の重みに耐えかねてつぶけている。珍しくもない風景だけど、なんとも言えない気持ちになる。 ちょっと感傷に浸りそうになり、あわてて思考を少し巻き戻す。 あれ、つぶける? つぶれるが正しいのはわかる。でも、つぶけるは言い間違いではないと思う。
さこういっぱく、と読む。 馬の特徴をあらわす言葉だ。 左後ろ足だけが白い馬のことを言う。 むかし、左後一白の馬はよく走るのだと祖母が言った。ある種の迷信だとは思うが、確かに当時家にいた、かつてよい成績を残した馬は、左後一白であった。 夕方に、祖母と馬屋の外を歩いた。 馬が振り返る。鼻を鳴らすものもいる。 ときどき思い出される遠い記憶。 雪の残る放牧地で、ブカブカの馬服を着せられたとねっこが跳ねる。まだ首が短くて、両足を少し曲げないと地面に鼻が付かない。
人の振り見て我が振り直せとはよく言ったものだ。 ありのままで良いなどと言いながら、一方ではより良くなれとせっつく。 さて、良いとは? 悪いとは? その尺度も方向も個人の好みや経験のたまものであるなら、ただひとつ「お気に召すまま」というのが今の自分を納得させる言葉。
晴れた日が続いている。 それに加えて季節外れの高温とのことで、これはもうひょっとしたらひょっとするぞ、と妙な期待をしてしまう。 つまりは、もうこのまま春になっちゃうんじゃない? 今期の雪は終わったんじゃない? わくわくと天気予報を見る。 ……そうだよね、そんなにうまくはいかないよね。だって2月の中旬だもの。ここは冬将軍の陣地だもの。 数日したらちゃんと、雪マーク(ときどき傘マーク)が復活している。 しぼみそうになるところを、急いで自分の気を引く。まあいいじゃない
まてい、という言葉がある。マテーと発音する。正しい漢字の表記は知らないが、真丁くらいだろうか。 丁寧みたいな意味である。たぶん方言。 幼いころは大人や年上のきょうだいと過ごしてきた。自分が一番年下だった。当然に、彼らと同じようには行動できない。 のろのろとしているように見えただろう。トロいと言われたこともある。今思えば自分のことながら酷な言葉だが、そのときは自分が劣っていることへの罪悪感にまみれた。 遅れないように、待たせないように、失敗しないように心を砕いた
ときどきある。 目覚めたときに、涙が流れている。まだ夜中だった。 久しぶりだ、と思いながらまばたきをしたら、両目からさらに流れ落ちた。 寝間着の袖でぬぐう。夢と現実のはざまで混乱しつつ、一刻も早く再び眠りにつきたい。 それにしても、心当たりがない。それほど追い詰められていたわけでもない。ああそうか、久しぶりに読んだ小説の、救いのない展開のせいかも。 孤児の少女が成長していくお話。かっこいい大人の男性2人に守られながら生きていくなんて、刺激が強すぎやしないか。
姉には「次に動画が送らさってくるときは家出猫が見つかったときだな」と言っておいたが、ニャギが行方不明になって一週間ほどが過ぎ、もう帰ってこないんじゃないかという考えがちらつき始めた。なぜか死んだ犬の夢を見た。 それから数日して、姉から「やっとお帰りになった」と動画が届いた。ニャムニャムと声を出しながらエサを食べる猫。その頭を「もう行くなよ、行くなよ」と手荒く撫でる姉。後ろから「良かったー帰ってきたー」と母の涙声が聞こえる。 数えてみると、いなくなってから9日が経ってい
ニャギが姿を消して4日が経った。 日の当たる馬房にも、草切り場にも、お気に入りの桶にもいない。このごろ暖かい日が続いたので、春と勘違いして出掛けたのだろうとのこと。 母と姉は寂しいと言ってニャギの帰りを待っている。(姉はカボチャを切りながら外を見ていて、包丁で手を切ったらしい) そろそろ帰ってくるだろうと思うが、なんとなく不安だ。興味ないふりをしてみるが、実は私だってちゃんと心配しているのさ。
仕事納めののち、まずもちをついて、それから年末年始に猛烈に雪かきをした。 あとは、馬入れを手伝ったり、スタックした車を全力で助けたり、外でねこを抱っこしたり、ポテチを食べながらゲームしたりしてすごした。 つまりはいつもの正月か。 久しぶりに間近で見る馬は鼻先の毛がひどくみっしりと生えていて、もじゃもじゃだった。触ると、上唇を引き伸ばして、私をかじろうとパクリとやる。 姉はニャギにかまぼこをやるのだと張り切っていたが「あいつ、食べないタイプだった」と戻ってきた。元旦に