辻村深月「子どもたちは夜と遊ぶ」を眠れない夜に読んだ。
辻村さんの本はどれも光りかがやく一節がどこかに隠れていて、宝探しをするみたいに読んでしまう。
だから眠れなくて天井を見つめていたら、彼女の本を読んでみてほしいのです。早く寝なくちゃ、とそれでも思うなら本を閉じるしかないけれど、きっと読んでいるうちに「自分が探しているものがある気がする」という気になってくる。
眠れない夜は、自分のことを探り探って嫌いになってしまうでしょう。寂しくなってしまうときもある。
でも読書って、誰かの人生を借りて、本を開いている間そこに生きる行為だと思うんです。ページをめくっているとき、わたし達は彼らである。そういう体験ができるものが読書体験なんじゃないかって。
それは共感ともまた違くて、自分のなかの誰かと共鳴しているような時間。
孤独だって思うなら、読むしかない。それがあなたの救いになるかはわからないけれど、天井を見つめているよりは探し物が見つかると思うんです。
言葉で表現できない大事なあなたに伝えたい
今回は、「子どもたちは夜と遊ぶ」の中の一節を紹介します。
辻村さんの本を読むと、わたしはその中に取り込まれたような気がして、そうしているうちに聞こえた台詞がガツンと胸の奥まで放られる。だから読み終えたあともずっとその言葉を背負っていかなくちゃ、と思えるんです。良くも悪くも。
この本でわたしが抱えた言葉はこれ。
「君が生きているというそれだけで、人生を投げずに、生きることに手を抜かずに住む人間が、この世の中のどこかにいるんだよ。不幸にならないで」
これがどういう文脈で放られた言葉なのかは、ここでは言いませんし、あらすじ紹介もべつにしません。
でもこれは、気休めで出た言葉ではない。これを発した人間の悲痛な叫びと、込められた祈りがしっかりと伝わってくる。
この言葉がみんなの大事なひとに届けばいいのに、と思います。
世の中には名前がつけられないほどいろんな関係性があって、だれかに説明できないけれど大切に思う、というただその一点だけは認められる相手というのがいるはずなんです。みんなが「大事」という言葉を友情愛情家族とかそんな風に持っていけるわけではないじゃないですか。
だったらその大事をありきたりな一言で表してはだめで、気持ちを因数分解して言葉を尽くすべきだって思うんです。「好きだ」とか「愛してる」とか、そんな共通の言葉じゃいけないんだって思う。
そういう言葉じゃ真っ向から伝えられない相手にだって伝えようとすれば伝わる言葉があるんじゃないですか?
辻村深月の小説の中では、誰もが言葉を尽くそうとしている。使い古された言葉や共通に持っている関係性じゃなくて、あなたたちだけの関係性があるからいいんだ。......と、そんな風に思います。
ねえ、眠れないならその夜は誰かの人生に飛び込んでみてもいいと思いますよ。
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