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#2)女性写真家ガートルード・ケーゼビアのジェンダーとしての生き方

ガートルード・ケーゼビア(Gertrude Käsebier, 1852-1934 US)
アメリカの女性写真家。
母と子の間の絆、ネイティブアメリカン等の肖像や、女性のキャリアをモチーフにした写真で著名だ。
フォト・セセッション(Photo-Secession)、そしてピクトリアリスム(pictorialism)の方向性を持つ作家だ。
そして、この後半で、記述したいことは、ジェンダー(gender)として、女流写真家だったと言う事だ。

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(c)Gertrude Käsebier   その肖像写真は誰しもが惹かれる世界がある

略歴-後半
1899年7月、アルフレッド・スティーグリッツ( Alfred Stieglitz)は、Camera Notes(写真ジャーナル)に5枚のケーゼビアの写真を公開した。そして、「ケーゼビアが主要な芸術的肖像写真家」であることを宣言した。
1900年、ケーゼビアは、多くの評価を得たと言うことだ。そして「米国で最も優れたプロの写真家」とも言われた、時の人だ。
1902年、スティーグリッツは、ケーゼビアをPhoto-Secessionの創設メンバーとした。
そして、Camera Work誌の創刊号では、ケーゼビアの6枚の写真が掲載されている。
1906年、スティーグリッツは、クラレンスH.ホワイトと共に、ケーゼビアの写真を291ギャラリーで展示した。
その後、夫とも上手くいかず、欧州での撮影(彫刻家ロダン等)に出かけている。
その夫エドゥアルド・ケセビエは、その後の1910年に病で亡くなっている。
そして、ニューヨークに戻ったケーゼビアは、スティーグリッツと衝突することになる。
それは、ケーゼビアが、家族の生活費用から、その写真の商業性(肖像写真-ポートレイト)を入れなければならなかった。だが、その側面に対する、スティーグリッツの理想主義とは、相容れない要素があったからだ。
そして、ケーゼビアは、スティーグリッツの流れから去った、そして、スティーグリッツとの関係は、最期まで、取り戻すことはなかった。強烈な個性と自我がなければ、そのキャリアは成立しないと言うことだろう。
この辺りも、クラレンス・H・ホワイトと同じパターンだ。
それ以降、ケーゼビアは、アメリカの女性専門写真家協会の設立に向けて、スティーグリッツとは別のコースを歩む事になった。
1910年代後半-1920年代、ケーゼビアは、ポートレイトビジネスを拡大し続けた。
1929年、ケーゼビアは、写真を放棄し、そのスタジオも清算した。全てを出し切ったと言うことか? これは、天賦の才を持ち得た人物によくある事象かも知れないのだが・・
ただ、同年、ブルックリン美術館(NY)で主要な1人として作品を展示された。
1934年、彼女の娘(ヘルミン・ターナー/Hermine Turner)のニューヨークの家で死去した、82歳だった。

  ガートルード・ケーゼビア

「アーティスティックな写真を撮るキー、それは、自らの考えを、自らで表現すること。他人の真似事では到底うまくいくはずはない」-Gertrude Käsebier


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