#1)女性写真家ガートルード・ケーゼビアの苦難の道
ガートルード・ケーゼビア(Gertrude Käsebier, 1852-1934 US)
アメリカの女性写真家。
母と子の間の絆、ネイティブアメリカン等の肖像や、女性のキャリアをモチーフにした写真で著名だ。
フォト・セセッション(Photo-Secession)、そしてピクトリアリスム(pictorialism)の方向性を持つ作家だ。
(c)Gertrude Käsebier
略歴-前半
1852年、ガートルード・ケーゼビア(旧姓:ガートルード・スタントンジ)は、アイオワ州デモインで生まれる。父(ジョン・W・スタントン)は、ゴールデン市長にも選出されている名士だった。ベツレヘム女性神学校(Moravian College)で学んだ、後、結婚(夫はエドゥアルド・ケーゼビア)し、ニュージャージーの農場で暮らし、3人の子供を授かるが、それは失敗した様相だ。ただ、当時は、まだ、離婚と言う視点は考えられなかったようだ、それは、アメリカの地方では、ピューリタン(清教徒/厳格・潔癖)の影響下にあった時代だっこともあるのかも知れない。
1889年、ガートルード・ケーゼビ(以下-ケーゼビア)は、家族をブルックリン(NY)に戻して、(私立大学)プラット・インスティテュート(Pratt Institute)に通い始めた、なんと37歳でだ。そこでは、フレーベル(現代教育、幼児教育)の理論についても学んでいる、そして、母性についてケーゼビアのロジックは変化していった。
また、プラット芸術研究所で、出会った教師のArthur Wesley Dow(画家、版画家、写真家)の影響は大きい。ケーゼビアを他の写真家や当時のアート系の有力者に紹介している。このArthur Wesley Dowは、ジョージア・オキーフ(Georgia O'Keeffe)にも過大な影響を与えている。
プラット芸術研究所では、ドローイングとペインティングを学び、その後、1894年には、欧州に渡り、また、ドイツでは、ショートスパンで、写真化学を、また、フランスで絵画を学んでいる。
1895年、彼女はブルックリンに戻り、病んだ夫の代わりにも、写真家としてのキャリアをスタートさせた。
ブルックリン(NY)のサミュエルH.リフシェイ(ポートレート写真家)のアシスタントとなり、スタジオの運営方法と印刷技術(プリント)の知識を習得した。その後、1896年、ボストンカメラクラブ(Boston Camera Club-アマチュアの範囲かも知れないが)で150枚の写真を公開し、その写真が1897年2月には、母校である、プラット・インスティテュート(Pratt Institute)で展示された。
このイベントの功績は、1897年にフィラデルフィア写真協会でも評価を得た。ケーゼビアは、そこで講義し、女性に仕事として写真を撮ることを奨励している。
1898年以降、ネイティブアメリカンのもとに通い詰め、その写真を撮っている。それは、純粋な芸術であり、商業目的ない。その時代の写真は、スミソニアン協会の国立アメリカ歴史博物館(The National Museum of American History)の写真史コレクションに保存されている。
そのケセビエ写真は、衣装や習慣よりも人の表情や個性に重点を置いている。ケーゼビアは、ネイティブアメリカンの儀式の様子よりも、顔や身体にポイントを置いた写真だった。
ここまで、来るのに、ガートルード・ケーゼビアのその道のりは大変な苦難の連続だった、ただ、強い意志があって、それを可能した言う事だ。
「良い物事は、残存するでしょう」-Gertrude Käsebier
Fig.Gertrude Käsebier
つづき、として、女性写真家ガートルード・ケーゼビアのジェンダー(gender)としての生き方を掲載致しました。
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