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シャンパンと波音の喜び -オペラ『椿姫』の魅力【エッセイ#46】

オペラ作曲家として高名なヴェルディの私の印象は、ひと言で言うと、海の音楽家です。その音楽から絶えず波音が聞こえてくるような感触があるのです。
 
彼の作品の中で一番有名で、恐らく公演回数も多いのは、『椿姫(ラ・トラヴィアータ)』でしょう。この作品には、彼の特色と、この作品にしか見られない独特な緊張感のようなものがあり、特別な一作となっています。


 
ジュゼッペ=ヴェルディは、1813年、イタリアのパルマ近くの片田舎生まれ。若くしてミラノに出て、オペラ作曲家として世に出ようと苦闘します。3作目の『ナブッコ』で大成功を収めると、『リゴレット』、『トラヴァトーレ』といった名作でヒットを飛ばします。それらは、ヴェルディの特長である、男たちのパワフルな愛憎のぶつかり合いと、まっすぐな熱情に溢れています。

そんな脂の乗り切った時期の1853年に『椿姫』は制作されました。

ジュゼッペ=ヴェルディ

この作品は、フランスの作家デュマ=フィス(『三銃士』や『巌窟王』で高名なアレクサンドル=デュマの息子です)の自伝的小説をオペラ化したものです。

パリの高級娼婦ヴィオレッタと、初々しい青年アルフレードが愛し合いながらも、周囲に反対され、誤解をしたまま別れる。結核に冒されていたヴィオレッタは死の間際に、アルフレードとようやく本当の愛を確かめ合い、結婚を許可されるが・・・という、悲恋のメロドラマです。

アルフォンス=ミュシャ『椿姫』(1896年)
モデルは、舞台版を演じた
名優サラ=ベルナール

 この作品は、ヴェルディが、意識的に今までにない傑作を作ろうとした作品でした。大胆で斬新な形式で書くつもりだと、書簡で伝えています。
 
何が大胆なのか。それは、題材です。この作品に出てくる「高級娼婦」というのは、その日本語の語感からは少しずれていて、『ドゥミ・モンド』(裏社交界)と呼ばれる社交場を仕切る女主人のような存在です。美しさと気品と、知的さを兼ね備え、芸術家や貴族を集めたサロンや舞踏会を主催して、社交界の花形として君臨しました。
 
しかし、社交界の女王と言っても、出自は、貧しいお針子であったり、貴族の愛人であったりすることも多く、決して表立って目立てる存在ではありません。だからこそ、この作品の中では、アルフレードの父親(地方の名士)から、「君が息子と同棲していると、娘たちの縁談に差し支えるから、別れてくれ」と言われる。そんな存在なのです。
 


重要なのは、この作品が「現代劇」だということです。ヴィオレッタのような高級娼婦は、制作された1850年代に、まさに何人もいた存在でした。

大っぴらには口にできない、現在のスキャンダラスな事象を取り上げ、保守的で、昔の神話のような題材も多いオペラという形式で上演する。それは、劇場に爆弾を仕掛けるようなものです。

今の、2020年代の日本で例えるなら、パパ活をする女子大生の実話ルポ原作作品を、宝塚で上演するようなもの、と言えるかもしれません。
 
初演は、オペラ史に残る大失敗となりました。主役のヴィオレッタ役の女性が巨漢で、病弱には全く見えずに、観客から失笑が漏れたとも言われています(実は、この容姿と役柄の乖離は、オペラではよくある現象ではあります)。しかし、再演では大成功をおさめ、今に至るまで、最も上演の多い、オペラ史上の名作となっています。



そんな華やかな社交界を巡るドラマ。冒頭の有名な『乾杯の歌』のように、シャンパンの泡がはじけるような、享楽的な旋律が全編を彩ります。しかし、その中で、ちょっと異色のアリアが、一つだけあります。
 
第2幕、ヴィオレッタから別れの手紙が来て、アルフレードは逆上します。実はその前に、アルフレードの父親ジェルモンが(先に触れたように)ヴィオレッタに別れるよう説得し、ヴィオレッタは泣く泣く受け入れていました。

心ここにあらずのアルフレードに向かって、ジェルモンは、故郷の美しい自然を思い出して、戻ってきて欲しい、と説き伏せるように歌い上げます。


 この『プロヴァンスの空と海』という美しいアリアは、それまでの華やかな音楽と異なり、ノスタルジックで、しみじみとした曲です。まるで、イタリア民謡のような素朴な旋律で、明らかに浮いています。私は大好きなのですが、ドラマに関係ない、凡庸で閃きのない曲と評する人もいます。
 
しかし、それこそが、ヴェルディの狙いだったように思えます。つまり、この作品では、いつものヴェルディ的な世界が、裏側に来て、華やかな世界を支えているのです。


 
ヴェルディが海の音楽家、というのは、このアリアのように、ノスタルジックな旋律に、海の波音を思わせるオブリガードで彩るような音楽が、ところどころで響くからです。
 
『シモン・ボッカネグラ』の、夜明けの海のようなたおやかで美しい開幕部分。『オテッロ』の開幕の強烈な嵐からの、船が帰還する場面での、岩場に砕ける波のようなパワフルな音楽。

また、『ナブッコ』の、『行け、わが想いは黄金の翼に乗って』は、望郷の水夫たちが歌うような、息の長い旋律ですし、『リゴレット』の『女心の歌』は、ヴェネツィアの舟歌のような、揺れるリズムを感じます。
 
こうした高名なアリアでも聞けるように、彼は変幻自在に姿を変える波音の作曲家であるように思えるのです。




そんな作曲家が、自分の得意技を、あえて、凡庸な場面(この感動的な旋律は、息子には何も響きません)に持ってきたのは、彼が、『椿姫』の特殊性を自覚していた証左でしょう。

この作品は、ヴェルディ唯一の「現代もの」であると同時に、唯一女性が主人公です。この題材を作るには、自分の資質とは別の要素が必要であると判断したに違いありません。

この作品の全編に、そうした、いつもの自分と違う、いわば利き手と逆の手で書いたような、独特の感触があります。ノスタルジアを封じられた、上流社会の造花のような異様な色彩。それが、冒頭に書いた、ある種の緊張感です。


 
しかし、面白いのは、いつものヴェルディの、ノスタルジックで、海の男たちのような武骨で直情的な世界とは確かに違うのに、この社交界のヒロインの音楽にも、どこかヴェルディの特色のようなものが滲み出ていることです。
 
例えば、第1幕でアルフレードが歌い上げる『思い出の日から』のアリアや、人々が舞踏会を退場する時の弾むように盛り上げる一瞬の音楽には、舟歌の華やかで、しなやかな感触があります。また、全編通してヴィオレッタが歌う言葉に寄り添う優しい弦の伴奏は、優しい海風のようです。


それは、ヴェルディの音楽にある海の波が、繊細で甘い泡を立てるシャンパンに変化したのかもしれません。このシャンパンにはどこか海の塩のような隠し味がある。それはまた、華やかな上流社会の裏で流される、苦い涙のようなものなのかもしれません。

そうした隠し味があるため、作品全体に深みが生まれ、今でも名作として生きながらえているのでしょう。


 
弘法筆を選ばず、と言いますが、優れた作家は、決して自分が得意でない題材でも、素晴らしい名作を作ってしまうことがあります。それは、その作家の資質が、様々な偶然を経て、作品に美しく結晶しているからでもあります。ヴェルディの『椿姫』は、その数ある結晶の中でも輝かしい、真珠のような一作です。
 
私は、カルロス=クライバー指揮、イレーネ=コトルバス主演の、軽やかで素晴らしく生き生きしたリズムの、グラモフォン盤で楽しんでいますが、マリア=カラスを始め、優れた歌手や指揮者が名盤を沢山残しています。人気作なので、今でも気軽に実演で接することもできます。そのシャンパンと波音の、たおやかで泣けるメロドラマのオペラ世界を、じっくりと堪能できると言えるでしょう。


今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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