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追憶と忘却の織物 -映画『瞳をとじて』、ビクトル=エリセの若さ【レビュー・批評#8】

現在公開中の、スペインの映画監督、ビクトル=エリセの新作映画『瞳をとじて』を観てきました。Xの方にも少し書きましたが、素晴らしい傑作であり、驚きの作品でした。


ある映画の主演俳優が失踪したまま、映画が中止になります。それから年月が経ち、映画監督は、それ以降作品が撮れず、ほぼ小説家になっています。

そんなある日、失踪した俳優を探すテレビ番組に出るために、かつての映画監督はマドリードに行くことに。そこから、俳優の行方と、監督自身の過去を巡る旅が始まります。



この作品は、『ミツバチのささやき』や『エル・スール』等の伝説的な作品を残したスペインの巨匠ビクトル=エリセ監督が、1992年の『マルメロの陽光』以来、なんと31年ぶりに撮った長編映画です。
 
その間オムニバスに参加した短編映画はあったとはいえ、そもそもエリセ監督自身、10年に1本(『ミツバチのささやき』は1973年、『エル・スール』は1983年)という超がつく寡作の人なので、この新作は期待と不安が混じった作品でした。そして、個人的に予想を上回る作品でした。

『瞳をとじて』

 
なんといっても、冒頭の『悲しみの王』の場面から、圧倒されます。曇り空の寒々とした瀟洒な屋敷で、二人の男が会話している。それを、切り返しで何の変哲もなく撮っているだけの、10分ほどの短い場面です。

それなのに、この画面の荘重さ、男たちの間から立ち上ってくる哀しみと喪失の深さ。その痛み。
 
絵画でも文学でも音楽でもそうですが、一見素人でもできるような題材やシチュエーションで、人間の深淵を描き切ってしまえるのは、本当に限られた巨匠だけです。エリセがそんな巨匠の一人であることは、これを観るだけでも明らかでしょう。


 
ビクトル=エリセは1940年生まれ。1973年に撮ったデビュー作『ミツバチのささやき』は、スペインの片田舎の純真な女の子を主人公とする、寓話的な傑作です。
 
『フランケンシュタイン』をモチーフに、スペインの内戦と独裁政権による暗い過去と大人たちの無気力を随所に仄めかしつつ、どこか童話のような神秘的な雰囲気と、絵画のような美しい構図が交錯する作品で、一躍エリセを有名にしました。主役を演じた少女アナ=トレントの愛らしさも相まって、生涯の映画の一本に挙げる人も多い名作です。

『ミツバチのささやき』
アナ=トレント


10年後の2作目の『エル・スール』は、やはりスペイン独裁政権時代の暗い過去に囚われた父と、その娘との精神的な絆と断絶を描く、メロドラマの傑作。3作目の『マルメロの陽光』は、画家の製作過程を捉えながら、ドキュメンタリーとフィクションがゆったりと交わる、不思議な秀作。それから30年が経ち、『瞳をとじて』はそれらとは全く違う、驚くべき傑作になりました。

『エル・スール』


その驚きの理由を一言で言うなら、若さです。169分という長尺もさることながら、とにかく、やりたいことを全部詰め込んだような、若さと瑞々しさがあるのです。題材自体は、失われた過去の探求という、ノスタルジックで、言ってみれば老人的な題材なのに、構成が若者のように野心的なのです。
 
例えば、ここには、ジャンルで言うなら探偵ものの「フィルム・ノワール」と、「西部劇」という全く異なるジャンル要素が共存しています(後者については、実際に観てみると分かります)。

そして、主人公の映画を撮れなくなった監督は、明らかにエリセ自身をモチーフ(役者の外見もよく似ています)にしており、俳優が失踪した映画も、実はエリセが途中で企画から降ろされた映画に似ています。
 
そうした自伝的要素を溶かし込み、しかも、なんと『ミツバチのささやき』のアナ=トレントが50年ぶりに出演。かつて撮影現場で本当にフランケンシュタインを信じていた5歳の女の子は、アルカイックな笑みが美しい、落ち着いた女性になっていました。

そして、「あの場面」。ちょっとやりすぎでは、という意見もSNSにはありましたが、『ミツバチのささやき』を何度も観て愛している人間なら、瞳が潤むこと間違いなしです。私も劇場で、胸がいっぱいになりました。

『瞳をとじて』
アナ=トレント


つまり、とにかく一本の映画に、あらゆるものを詰め込みまくっているのです。更に言えば、今までのエリセにない要素も付け加わっています。それは「忘却」です。

かつてエリセは記憶を巡る寓話の作家でした。暗い歴史を上手く寓話にして、表面的には少女たちの成長譚にすることで、リアリズムより深く、人間の諸相を捉えていました。
 
しかし、『瞳をとじて』では、記憶の寓話の仮面をかなぐり捨てて、人間の「忘却」に正面から取り組んでいます。それは、この作品の全編に散らばっています。

そこに、自伝やら過去作の引用やらを張り巡らせるので、もはや失われたものへの追悼だとか、喪とかを思わせない、力強さと神秘が加わることになりました。



なぜこのような作品になったのか。彼のインタビューを読んでも分かりませんが、確実に言えることは、エリセは決して年老いていないということです。おそらく、彼にはまだ伝えたいこと、創りたいことがある。それゆえに、今詰め込められるものを詰め込んだのだと。
 
エリセは元々寓話的な作家というものもあり、持ちネタというか、画家で言うところのパレットの色彩が極端に少ない人です。製作時のトラブルだけではなく、そういったところも、寡作の原因だと思っているのですが、そんな人が83歳にして、ここまでキメラ状に膨れ上がった、若者が創るような大作を撮ったのは感動的です。
 

『瞳をとじて』


自分の人生とか、過去作の引用とか入れたら、それは老人の作品であり、遺言なのでは、と思われるかもしれませんが、巨匠の遺作というのは、寧ろ、枯れてシンプルに澄んだものが多いと、私は思っています。
 
音楽家や指揮者で言うなら、テンポが遅くなり、色彩感が薄れ、モノクロのように幽玄な空気感が出る。映画監督で言うなら、長回しでカメラを動かさずに、余計な効果も複雑なストーリーも象徴もない、短くてシンプルそのものな作品になることが多いです。
 
そこには、残り限られた時間で、語れるものだけを語りたいという思いと、必要なもの以外はもういらないという達観と、心臓の鼓動がゆっくりになって、懐古する必要すらなくなってきたという穏やかさがあります。それが、巨匠の枯れ切った芸というものなのでしょう。

『瞳をとじて』は、そうしたシンプルさとは全く別のベクトルを描いているのです。  


 
エリセは今年84歳であり、次にいつ作品を撮れるかもわかりません。これが最後になってしまう可能性も、現時点では捨てきれません。でも、『瞳をとじて』が、ノスタルジックな題材と思いきや、物語の最後まで凛とした力を失わない、探究と野心に満ちた映画だったことは、私の心に残っていきます。
 
それは、追憶の縦糸と忘却の横糸で編まれ、自分の想いや、好きな映画のジャンルで染め上げられた、巨大なタペストリーです。それはまた、最上級の芸術の一つであり、是非機会がありましたら、体験していただければと思っています。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のレビューでまたお会いしましょう。


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