言葉をきらめかせる -ボブ・ディランの詩と音楽
私たちは文学と音楽を切り離して考えています。しかし、本来はこの二つは結構混ざっていたものだったと思います。
シンガー・ソングライターのボブ・ディランが、ノーベル文学賞を獲った際、選考委員の一人が、古代ギリシアでは、詩人は自ら歌う存在だった、といった感じのコメントを残していたように記憶しているのですが、それはある意味真実です。
個人的には、最初に衝撃を受けた詩人は、ランボーでもマラルメでもなく、ディランでした。特に彼の66年の大傑作アルバム『ブロンド・オン・ブロンド』を聞いて、大きな感動を受け、CDを一時期ずっと聞いていました。
私がディランを「発見」したその頃、ディラン自身は低迷期だったため、周囲は完全に「昔のフォークシンガー」扱いでした。
なので、彼こそ最高の詩人だと密かにずっと思っていたところ、まさか後にノーベル文学賞を獲るとは、思ってもみなかったです。
閑話休題。ディランの作品は、まさに詩と音楽の高度な融合であるように思えるのです。それは、両方の要素が必要不可欠に結びついている作品だからです。
ボブ・ディランは、1941年アメリカ・ミネソタ州生まれ。20代でニューヨークに出て、フォーク・クラブでギターを片手に歌い始めます。1962年にレコード・デビュー。初期は30年代のフォークシンガー、ウディ・ガスリーに影響を受けた弾き語りスタイルでした。
戦争を象徴的に歌い、いつになったらこのような争いが終わるのか、という問いかけに「友よ、答えは風に舞っている」と神秘的に歌う『風に吹かれて』が、この時期の代表作です。
しかし、段々と、従来のフォークにとどまらない作風になっていきます。
当時のフォーク音楽は、戦争反対や貧しい人々への同情、平和への願いを歌う、いわゆる「プロテスト(抗議)ソング」が中心でした。しかし、ディランの歌は、シュールで個人的な歌詞に溢れてくるようになります。
そして、65年~66年にかけて、彼の音楽は一大転換を遂げます。
当時はフォークと全く別物と思われていたロックバンドの音楽を取り入れるのです。
強烈なロックのリズム、エレキギターのけたたましい響きに載せ、最早意味が分からなくなるギリギリの、シュールでパワフルな歌詞を歌う、最高のフォーク・ロック音楽を創りあげました。以下の3つのアルバムがその作品です。
この時期のアルバムは、どの曲の歌詞を聞いても、奇妙な味の魅力にあふれています。
夜の渚で今日を忘れて踊る「タンバリンの男」。廃墟の街で佇むシンデレラやアインシュタイン、ロビンフッド。オルガン弾きと葬儀屋と踊る政治家の傍らで、熱烈に求愛する男。まるで、イメージが爆発して、こちらに流れ込んでくるかのようです。
そして、この言葉のイメージの爆発には、音楽が関係していると思うのです。
そのことを裏付ける格好の作品があります。
アルバムに収めきれなかったテイクや未発表音源を集めた「ブートレッグ・シリーズ」というアルバムを90年代以降ディランは大量に出しています。
その第12弾『カッティング・エッジ』が、丁度この時期の未発表音源を集めたもので、音楽が生まれていく過程がよく分かるのです。
CDにして6枚分のその音源を聞くと、これら3枚のアルバム製作が、まさに「薄氷を渡る」ものだったことが理解できます。というのも、この時期のディランの音楽は、バックバンドとディランの歌唱を同時に録音していたのです。
例えば代表曲の一つ『ライク・ア・ローリングストーン』は、なんとリハから完成テイクまで全音源が入っているのですが、最初はとにかく、歌唱とバンドの音楽が上手く噛み合っていない感覚があります。
それがある瞬間、奇跡的にかちっと嵌まる。まるで今まで重しになっていた石が急にとれて、勢いよくホースの口から水が迸るような音楽になる。それが、アルバム収録のOKテイクです。
この時期のディランは、自身のギター1本だけでも、猛烈にドライブして、言葉を吐き出す作品を創れました。『ブリング~』や、『追憶のハイウェイ61』には、彼の弾き語りのみの作品もあります。
問題は、ディランの言葉の勢いや、複雑すぎるシンコペーションに、ロックバンドがついていけていないこと。リハを聞いていると、先のような、奇跡的に何とか嵌まる瞬間を求めて試行錯誤していたのが、理解できます。
ところが、『ブロンド・オン・ブロンド』では、これが一変します。このアルバムは、ニューヨークでなく、ナッシュヴィルで製作されたのです。
ナッシュヴィルはカントリー音楽のメッカであり、ここでのロックバンドは、主に、カントリー歌手のバックミュージシャン達です。それゆえに、全員がどんな音楽にも対応できる、高度な音楽性の持ち主でした。
その柔軟な音楽を得て、ディランの音楽は、強烈に輝きます。
例えば『メンフィス・ブルース・アゲイン』の、リハテイクは、殆どOKテイクと変わらない感触があります。音楽と歌唱がぴったり合っていて、後は微調整だけ。
しかも、完成テイクよりも、歌詞は控えめ。ということは、この音楽を得て、言葉がどんどん溢れて、詩の世界が広がっていったことが分かるのです。
『ブロンド・オン・ブロンド』の最後を飾る名曲『ローランドの悲しい目の乙女』は、その最たるものでしょう。
ディランが曲を書くまで待っていたミュージシャンたちは、深夜に呼び出されます。
ようやく録音を始めたものの、ディランの歌唱が凄まじく長く、終わりません。「これ、続くのか?。。。」と、ミュージシャン全員が無言で顔を見合わせながら、それでも演奏の手を止めずに続けます。
こうしてなんと、11分に渡る長大でシュールな名曲が、ワンテイクで録られました。この優れたバンドの音楽無しに、このような名曲は生まれなかったでしょう。
ディランが、バックのBGMでなく、一緒に演奏するロックバンドをつけて歌唱したのは、その音楽が、彼の発した言葉を輝かせるのを求めていたからのように思えます。
彼にとって詩は、書かれた文字で独立してあるものではなく、リズムやメロディと共にあって、それらが言葉を彩ってくれるのを分かっていたように感じるのです。
それは、冒頭にも述べたように、音楽と文学がまだ分かれていなかった古代の詩人を思わせます。言葉そのものをリズムやメロディで輝かせることで、人間の根源の生命力を纏ってきらめく「詩」となる。
そうしたパワーを貰えるのが、ディランのこの時期の作品です。是非、機会がありましたら体験していただければと思います。
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。
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